残酷さが完全になくなっていない今日の刑罰

このような偽りは未だにあるものの、今日、人類の刑罰が、合理化や人文化、人道化や人権化などの原理に基づいて単純化されたのは紛れもない事実である。

しかし、このことは、今日の刑罰に、もはや一切の残酷さもなく、いささかの衝撃性・可視性・有形性を求めていないことを決して意味しない。

今日でも、刑罰は刑罰である限り、一定の残酷さと、それを通じた衝撃性・可視性・有形性を帯びている。今の刑罰と昔のそれとの違いは、残酷さとそれによる衝撃性・可視性・有形性の有無ではなく、その多少だけである。

シンガポールで初めて日本人に鞭打ち刑20回の判決。腕を切り落とす、入れ墨を彫る…じつは残酷な人類の刑罰の歴史_4
すべての画像を見る

これらが全くなければ、刑罰も「刑罰」でなくなる。事実、今の日本・米国・中国のいずれにおいても、死刑を含む刑罰制度があるのみならず、司法の実際においても、衝撃性・可視性・有形性を極端に追求しようとする異常な動きが時として見られる。

例えば、2000年初頭の米国で、ある州の裁判所は、盗みをした青年に対し、「私が泥棒だ」と書いたプレートを胸の前にかけて高速道路の傍らで72時間立てという刑罰を言い渡した。

また、2006年11月に中国の深圳市では、警察が売春犯罪と買春犯罪の容疑で捕まえた百数十人の若い男女に特製の囚人服を着せ、繁華街に連れていき、大勢の公衆の前で容疑者の身長や氏名、出身地や両親の名前を読み上げた。

日本では、そこまでやることはないものの、容疑者や受刑者の顔写真を報道することはよくある。

裁判公開は、日本・米国・中国のいずれにおいても、刑事手続の基本原則とされている。その最大の理由に、裁判に対する市民の監督を保障することが挙げられているが、本当は、裁判公開原則の歴史的背景の一つは、かつてのように国家が刑事裁判を通じて刑罰の衝撃性・可視性・有形性を追求することにあるのである。


*1 村井敏邦『刑法──現代の「犯罪と刑罰」』岩波書店、1990年、21頁。

*2 冨谷至『古代中国の刑罰──髑髏が語るもの』中公新書、1995年、57頁。

*3 カレン・ファリントン編著『拷問と刑罰の歴史』飯泉恵美子訳、河出書房新社、2004年、34頁。大場正史『西洋拷問刑罰史』雄山閣出版、1989年。

*4 石井良助『江戸の刑罰』中公新書、1986年、5頁。

*5 冨谷至、前掲第2節註5、63頁。名和弓雄『拷問刑罰史』雄山閣出版、1987年、222頁。

文/王雲海
写真/Shutterstock

日本の刑罰は重いか軽いか
王雲海
日本の刑罰は重いか軽いか
2008/4/22
715円(税込)
199ページ
事件や裁判に対する国民の関心が、高まっている。裁判員制度の導入など、さまざまな司法改革も進められている。また、死刑制度に関する議論も盛んである。そもそも、日本で犯罪とされる行為や、与えられる罰には、どのような傾向があるのだろう? 日本の刑罰は重いのだろうか。それとも、軽いのだろうか。日本の刑罰制度の特徴や、その背景について、米国や中国の事情と比較しながら、具体例を挙げつつ分かりやすく解説していく。
 
【目次】はじめに/第1節 犯罪とは何か/第2節 刑罰とは何か/第3節 比較の視点がなぜ必要なのか/第4節 日本の刑罰は重いのか/第5節 日本の刑罰は軽いのか/第6節 日本の犯罪と刑罰の特徴はどこにあるのか/第7節 犯罪と刑罰の国による違いはどこから来たのか/おわりに 日本の刑罰をどう見るべきか
amazon