正しく生きることの困難と、背骨のような存在

──やっぱり亡くなった人を描くってすごく怖いことだと思うんですが、杏ちゃんに関しては、モデルになった彼女が生きていたっていう事実とか、それに影響を受けた入江監督自身の感覚が作品になって残っていくことの尊さを強く感じて。それが、すごく善の力を感じるものとして、承認欲求じゃないところから来ている気がしました。

この話って、究極死後の世界ってどうなってるんだろう? みたいなところに繋がるんですが、僕は死後は虚無だと思っていたし、いつ死んでもいいみたいな気持ちがベースにあったんですよ。

だけどこの映画を作ってるとき、空の上でこの杏のモデルになった子が見ててくれないと困るな、と思って。今僕がこの映画について怒られようが褒められようが、それは生きてる人同士の世界じゃないですか。この作品が別の杏みたいな状況の人のためになったとしても、それは死んでしまった彼女にとってはどうでもいいことで。

そうなると、空の向こうで見ている彼女という存在を勝手に作らないとやっていられなかったですね。上とか見ながら、これでいいですか? って問い続けるみたいな、そういう感じになりましたね。

取材では入江監督のパーソナルな話も多く出た
取材では入江監督のパーソナルな話も多く出た

──私はこの映画を拝見して、「入江監督、これから背筋を伸ばして生きていくしかなくなったな」と思いました。主人公の杏ちゃんは、監督自身が心のなかにつくったものかもしれないですけど、自分の中に誰かの存在があることで、“その人に対して誇りを持って向き合える自分でありたいと思う”みたいなことが人をすごく善の方に、生きる方に進ませてくれるような気がします。自分をくだらない人にしてしまわないように生きるっていうパワーですよね。

入江監督はおそらく、永久にそれを持ってしまったんだと思いますし、これから大変だなと思います(笑)。


今までそういう存在がいなかったんですよ。僕は44歳なのですが、同世代の男性が凶悪な犯罪を犯すことがすごく増えているんです。彼らは犯罪者として罰せられてますが、彼らがどうやって追い詰められていったのかっていうのが、同じ時代を生きていた者としてすごくよくわかる。

だから今話していたような、「その人に見られているから、正しく生きなきゃいけない」みたいな、精神の背骨になるようなものを持つことって、めちゃくちゃ重要なことだと思うんですよね。

──気力や体力が衰えていって、未来があるっていう漠然とした希望すら抱けなくなっていく中で、それでもがんばって素敵でいる理由がなくなっちゃうんですかね。

この前、ちょっと硬い駄菓子の袋を歯で開けようとしたら歯が折れたんですよ。20代のとき貧乏で治療せず放置して。そうやって自分を大事にしてなかったツケがちゃんと回ってきました。僕にはたまたま映画があってそれにすがって生きてこれていますが、本当に自分を律して生きていくのって難しいこともあるんだと思います。