「この子のことを描く以上は自分は一生背負うことになる」
──彼女が希望を見出しながらも、ふたたび孤立していくきっかけとして、薬物からの更生を手伝ってくれた、佐藤二朗さん演じる刑事・多々羅の性加害事件の告発がありました。社会構造上、困っている女性を余裕のある男性が助ける、という構図は多くありますが、その男性が誰かの加害者たりえていることが描かれているのはとても大事だったなと。
多々羅は一番わかると思いながら描いたキャラクターです。脚本を書いている当時から、監督やメディア関係者とかの性加害問題ってすごくたくさん耳に入っていて。多々羅も実際の刑事をモデルにしているんですが、その方が自助グループをやっているっていう美談と、その後性加害で捕まったっていう記事が事実として両方出ました。
取材した記者の方に聞くと、やっぱりちょっとおもしろい方だったと聞いて。そういうおもしろさっていうのが、結果的に起こってしまった性加害と、よく考えると繋がるところもあるんじゃないかとか考えました。
ただ性欲の強さっていうよりはそれが承認欲求と絡み合ってるんじゃないかと思っています。自分が作ったグループでみんなから頼られることによって生きがいを得ていて承認欲求を満たすみたいな。それが性欲と結びついているからこそ、どうジャッジしていいかわからない。
──承認欲求や性欲を満たすという目的があることによってその人が頑張れたり、魅力がより発揮されたりすることってありますよね。同時に本作を観ると、 “承認欲求なしでの人助け”はできるのだろうか、と考えてしまいます。
僕はそもそも人を助けるってことがよくわからないんですよ。ドライな人間なのかもしれませんが、自分も人に悩みを共有しないし、SOSを出さない。例えばお金貸してくれとか、具体的に助け方を提示してもらえれば助けられるんですが、人の漠然とした悩みを掘り下げていこうとは思わないです。
コロナ禍で女性の友人を亡くしたのですが、なにかできたか、助けられたか、っていうのはいまだにわからないです。悩みを聞いて掘っていったとして、本人が把握していないようなことにぶつかるかもしれないじゃないですか。深い話を聞いてしまうと、自分がずっと背負わなきゃいけなくなる。
杏に関しては、モデルだった子は亡くなっていて、僕のことを怒ったりもできないけれど、この子のことを描く以上は自分は一生背負うことになるんだなと。実は映画作りで、登場人物に対してそう思ったのは初めてでした。