日本歌謡界の女王としての矜持

その間に再起をかける新曲の『みだれ髪/塩屋崎』(作詞:星野哲郎/作曲:船村徹)が完成し、レコーディング日が10月9日に決まった。

ところが、親しくしていたスポーツニッポン新聞の小西良太郎が10月初めに自宅を訪れると、美空ひばりは前日に初めて立つことができたという状態だった。

「今日初めて10分くらい立ってみた。少しふらついたけど、もう大丈夫」と、その場で微笑む。

誰が見ても、歌える体調ではない。しかし、レコーディングの当日。美空ひばりが希望して行われたオーケストラとの一発録りの同時録音は、完璧なものだった。

第一声は「ああよかった。ちゃんと声が出るわ!」

1987年発売『みだれ髪/塩屋崎』(コロムビア)のジャケット。歌の舞台となっている福島県の塩屋埼には美空ひばりの記念石碑が建っている
1987年発売『みだれ髪/塩屋崎』(コロムビア)のジャケット。歌の舞台となっている福島県の塩屋埼には美空ひばりの記念石碑が建っている

歌い終わるごとに椅子に腰をおろし、テープを再生して聴き直した。近寄りがたい厳しい表情で、スピーカーから流れる自分の声をチェックした。自らイメージした歌の完成図と突き合わせているのか? 次の歌唱のために緊張感を高めているのか?

美空ひばりは、テストで2回、本番でも2回、フルコーラスを一気に歌った。いつもよりも念入りの同時録音だったが、それですべてが終了したのである。

立ち会っていた小西は、その気迫と集中力にあらためて驚かされた。そこには日本歌謡界の女王としての矜持があった。

歌い手は思ったに違いない。復帰を待っているファンだけでなく、もっと広い音楽ファンに現在の自分をアピールしなければならない。そんな折に舞い込んできたのが、翌年に完成予定の東京ドームでのコンサートだったのだ。

美空ひばりはコンサートを催すうえで、花道を用意してほしいとリクエストした。それは歩くことすら困難な状態を味わったからこそ、自分はまだ歩けるし、これから先も歌手としてまだまだ歩いて行く。そのことをファンに伝えたいという想いの現れだった。

1988年4月11日、東京ドーム。復帰公演『不死鳥~翔ぶ新しき空へ向かって』のステージから一番近い部屋に用意された楽屋には、医師と簡易ベッドが待機し、最悪の事態に備えて外では救急車もスタンバイしていた。

1995年2月21日発売のアルバム『不死鳥 美空ひばり in TOKYO DOME 〜翔ぶ!!新しき空に向かって〜』(日本コロムビア)のジャケット写真。控室にはベッドと酸素ボンベが置かれ、医師が待機するほどの体調のなか、39曲を熱唱した伝説のコンサートだ
1995年2月21日発売のアルバム『不死鳥 美空ひばり in TOKYO DOME 〜翔ぶ!!新しき空に向かって〜』(日本コロムビア)のジャケット写真。控室にはベッドと酸素ボンベが置かれ、医師が待機するほどの体調のなか、39曲を熱唱した伝説のコンサートだ
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それでも美空ひばりは、2時間半で39曲を熱唱し、5万人の大観衆の心を打った。そして最後はファンの声援に応えながら、決意も新たに花道を一歩一歩と進んでいく。

歌手としての道を全うすることを誓った東京ドームでの姿は、日本の音楽史において忘れ得ぬ光景となった。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル/2024年5月29日発売『歌は我が命 1989 in 小倉 〜美空ひばりラスト・オン・ステージ「さよならの向うに」〜』(日本コロムビア)

参考文献/引用
森啓『美空ひばり 燃えつきるまで』(草思社)
小西良太郎『美空ひばり 涙の河を越えて』(光文社)
小西良太郎『海鳴りの詩 星野哲郎歌書き一代』(ホーム社)
星野哲郎『歌、いとしきものよ』(岩波書店)
美空ひばり公式ウェブサイト