嫉妬と水平化──キルケゴール

嫉妬と平等の関係を鋭く見抜いていた人物として、セーレン・キルケゴールの名を挙げておこう。なにせ嫉妬について彼は、「私が特別の研究題目として推奨したいもので自分では徹底的に研究し尽したと自惚れている主題である」(キェルケゴール『死に至る病』斎藤信治訳、岩波文庫、1957年、138頁)と胸を張っているくらいなのだ。

先にも議論したように、キルケゴールも、陶片追放を嫉妬のはけ口と見るプルタルコスと同じ見解をとっている。

コペンハーゲンのキルケゴール像
コペンハーゲンのキルケゴール像

彼の考えでは、革命の時代が情熱的な時代、感激に満ち満ちた時代であったのに対し、「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃え上がっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代」である。

そのような情熱のない時代には、嫉妬は「水平化の現象」に逢着する。水平化は確かに一種の平等の状態を目指すものだろう。しかし、キルケゴールにとって、ある種の平等の実現でもある水平化は歓迎すべきものではない。

現代は平等の方向において弁証法的であり、この平等を誤った方向に最も徹底化させようとするのが、水平化のいとなみであり、この水平化は個人個人の否定的な相互関係の否定的な統一なのである。(キルケゴール『現代の批判 他一篇』59頁)

つまり水平化とは、単に皆が平等に生きるユートピアのことではない。むしろ嫉妬者が才能のある者や傑出した者の足を引っ張ることで、すべての人を凡人並みにしてしまうような状態を指している。キルケゴールにとって、これほどつまらない時代はないというわけだ。
承認欲求──フランシス・フクヤマの「気概論」

こうした嫉妬と水平化についての洞察を、21世紀まで視野に入れて展開しているのがフランシス・フクヤマである。フクヤマといえば、自由民主主義の勝利についての楽観的な展望で知られるが、彼の『歴史の終わり』の真のポイントは、そうした歴史についての見立てにあったわけではない。むしろ彼の鋭い洞察は「気概(テューモス)」にかんする議論、およびそれが民主主義に危機をもたらすという点にある。

まず、「気概」とは承認を求める魂の部分のことである。これは私たちの尊厳の感情にかかわっており、他者から肯定的に認められれば誇りを感じ、不当な評価であれば怒りや恥を引き起こす。

プラトンは人間の魂を理性、欲望、そして気概という三つの部分に分けたが、フクヤマはこの気概をおおむね「承認欲求」と捉えつつ、現代のアイデンティティ・ポリティクスの興隆の背景には、こうした気概の存在があったと見る。

ちなみに、2016年のトランプの大統領当選や英国のEU離脱をめぐる国民投票などによって注目されるようになった、貧しい白人労働者階級の政治的な選好についても、こうした観点から説明できる。

いわゆるリベラル派は人々の理性的な部分に訴えながら、彼らが「正しい」と信じることを主張していたが、そこで彼らが見落としていたのは、まさに人々の気概、すなわち承認欲求やアイデンティティの次元にほかならない。

言い換えれば、「正しさ」だけでは人々の支持を集めることはできないということなのだ。いくら滑稽に見えたとしても、トランプの言説が人々にウケたのは、まさにそうした側面に応えたからではないだろうか。