貧しさの中から立ち上げたビジネス
冒頭に紹介したエピソードのように、100円ショップはなかば偶然に誕生した。しかし同時に、矢野は「すべてを100円で売る」ことが、他店との大きな差別化につながると予感していた。事実、その予想通り「100円」という制約が、逆に魅力的な商品や、その流通を可能にする仕組みを生み出した。
当時のダイソーは、現在のように常設の店舗を持っていたわけではなかった。矢野をはじめとした社員が、トラックに商品を積んで各地の催事場に出かけていき、そこで臨時の店舗を開く形で営業をしていた。今風にいえば、「ポップアップストア」である。
これには、矢野がダイソーを創業する時点で、多くの資金を持っていなかったことが関係している。矢野の家庭は貧しく、大学には進学できたものの典型的な苦学生だった。大学卒業後も、百科事典のセールスマンやはまちの養殖業、ちり紙交換業などさまざまな職種を転々とした。自身の人生を振り返るときに出てくる、「転職9回、夜逃げ1回、火事1回」とお決まりのフレーズまであるくらいだ。
そんな中で始める事業だったから、初期投資は少ないほうがいい。だからこそ、この形態になったのだ。というより、この形態でしか経営ができなかった、といってもよいかもしれない。100円ショップという形態だけでなく、こうした経営スタイルまでが、矢野の境遇から「仕方なく」生み出されたものだったのだ。
「仕方のない状況を受け入れる」矢野の経営スタイル
矢野の境遇は、その経営スタイルにある一貫性を持たせている。それは「仕方のない状況を受け入れる」という思考法だ。100円ショップが始まった状況を思い出してみてほしい。客が押し寄せ、どうしようもない。そんな中、苦肉の策として生み出されたのが「すべてを100円で売る」という発想だった。どうしようもない状況を「受け入れ」たときに、そこにイノベーションが生まれた。
他の例を出そう。
移動販売から本格的に店舗運営をはじめるようになったときにも、この思考法が現れる。
当時ダイソーは、商品流通の6割を「ダイエー」に頼っていた。ダイエーは、日本におけるスーパーマーケットの草分けになった存在で、創業者・中内㓛を中心に全国に店舗展開を広げていた。
そんなダイエーの催事場に、ダイソーは100円ショップを展開していた。しかし、1987年のある日、中内は矢野を呼び出し、こう言ったという。
「催事場が汚くなる。これからの新時代にはふさわしくないから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する」
売上の大部分をダイエーに頼っていた矢野にとって、この通知は衝撃的なものだったに違いない。伝記はこのように続く。
六割もの商品ストップは大打撃だ。
矢野はどうしたら会社が潰れなくて済むかと考えた。
「そうだ!ダイエーの客が流れるところに店を出せばいい!」
ダイエーの中がダメならば、その外で店舗を出店すればいい。まさかの発想だった。こうして初期のダイソーは、ダイエーの近くに店舗を出店することで、常設店舗としての100円ショップがはじまる。
(大下英治『百円の男 ダイソー矢野博丈』)
本来ならば、このような中内の暴挙ともいえる采配に対して、なんとかして食い下がることもできたはずである。しかし、矢野の自伝では、ダイエーから出店拒否をされてしまったときの状況が、非常に淡白に記述されている。矢野は状況をすんなりと受け入れ、そこからどうにかして状況を打破する方法を見つけたように見受けられる。ここにも、矢野の経営態度が表れているのではないか。