悲惨な戦争体験の解明が生涯の問い
鉄血勤皇隊として戦場に送られた大田昌秀さんは、「法律もないままに戦場に送り込まれた」と語る。
大田さんは久米島で生まれ、父は大田さんが1歳の時にブラジルに移民し、母に育てられた。そして、沖縄師範学校在学中に、鉄血勤皇隊として戦場に送り込まれた。
「兵隊はケガをしないように脚絆(きゃはん)というのがあるが、僕らにはそんなのはなく、半そで半ズボンで戦場に出たわけです。1丁の銃と120発の銃弾、2個の手榴弾を腰に下げてね」
ひとつの手榴弾は敵に対して、もうひとつは自決するために使用することが命じられた。
なぜ沖縄戦で惨めな犠牲を強いられたのか。沖縄戦の解明、それが大田さんの生涯の問いだ。大田さんは沖縄県知事時代(1990~1998)に基地の代理署名拒否や少女暴行事件、米軍基地撤去に対して取り組んできた。そこには自身の沖縄戦の経験が大きい。
「沖縄の人は、本土の日本人やアメリカ人と同じ人間なのに人間扱いされていない。主権国家の国民としてみなされていない。絶えず他人の目的を達成させるポリティカル・ポーン、政治的な質草・手段にされている。こんなことは許されない。同じ人間だから」
大田さんは、軍国主義の行く末を戦場で目の当たりにした。
「皇民化教育は、沖縄の人は日本人と同じように天皇の子だと言って、沖縄の言語を弾圧して撲滅運動を起こし、沖縄的なもの、習慣を廃止して日本風に変えろと、日本人になれと教える」と力強い声で批判した。
国家のアイデンティティより、人間の権利が略奪されない「人間としてのアイデンティティ」を培うべきだという彼の言葉。それは、これからもずっと遺っていく。