「みんなを世に出す助産師をやった」
『俺はロッキンローラー』の冒頭で、こんな本音が述べられていた。
「ロック・フェスティバルもやりにくい時代だぜ! 最近はちょっと人気が出るとすぐに、ワンマン・ショーをやりたがる。ワンマン・ショーなんて、年に一回で十分だ。そんなにイイカッコして、メリットを自分のものだけにしようっていうのかい? Rockerをめざす多くのグループに少しでもチャンスを与えてやることが、Rockの持っている共同体意識だと思う。テメエ一人でエラくなったんじゃないぜ」
また、当時の外国人は、日本にロックがあることなんて、ほとんど誰も関心を持っていなかった。東洋の小さな島国に1億人もの人間が住んでいて、よく分からない神秘の国と思っていた人が多かったのだ。そしてカメラも、ファッションも、車も、音楽も、すぐにコピーして、それを海外に輸出して商売をしていると思われていた。
そうした事実を受け入れたうえで、内田裕也は誰にも真似ができない実績を積み重ねながら、日本と世界をつなぐロックの仕掛け人となっていく。
「どっちみち、ちっちゃな島民が生きていくには、世界中の良いものをとって、テメエらに合わせなくちゃ…。でもそこから本物が生まれる時がある。本物を超える時がある! 俺はそれを信じている」
「俺はそれを信じている」と言い切った内田裕也の言葉には、いつだって嘘がなかったし、真剣そのものだった。
「俺の場合、邸宅からいきなり長屋住まいになったとき、ガキながらも、俺はなにかやってやろうと思ったんだと、いまになって思う。そしてRockerになれたから、今生きていることを感じている! 自分自身を表現できる唯一のもの、それがロックだと俺は信じている」
2011年に行われたテリー伊藤との対談で、内田裕也は「僕にはヒット曲はないですけど、29歳から39歳までの10年間、タイガースも含めて、みんなを世に出す助産師をやった」と、裏方としての仕事を振り返っていた。
そして最高の発言を残した。
「男としていちばん輝いてる10年間は、人のために尽くしました」
文/佐藤剛 編集/TAP the POP
<参考文献>
・内田裕也 著『俺はロッキンローラー』(廣済堂文庫)
・黒沢進 監修『ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス1955-1970 : ロカビリーからグループサウンズまで』(シンコー・ミュージック)