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“人が死ぬかもしれない不安”がよぎったノイズ、ハードコア系の現場
――ライブハウスを取り巻く音楽シーンの空気が徐々に変わってきているなと感じたのは、いつ頃のことでしょうか?
平野悠(以下同) それはやっぱり、新宿ロフトを開店してしばらく経った70年代の後半からですよ。キャパの限られているライブハウスの宿命なんだけど、みんな売れだしたら出てくれなくなっちゃうでしょ(笑)。
ニューミュージック系のミュージシャンたちもそのうち大きなホールでやるようになってね。レコード会社の連中も売れるのがわかってきているから、ライブを、レコードを売るための宣伝として考えるようになるんですよ。連中から「ライブの出音をレコードと同じ音にしてほしい」とか言われるようになってね。こっちからすれば、何を言ってやがるんだバカヤロー!って話ですよ(笑)。
――(笑)。一方で、そのあたりの時期から新宿ロフトは、東京ロッカーズなどのパンク系やニューウェーブ系のバンドに門戸を開いていくようになるんですよね。
そうです。1980年前後からガラッとブッキングの傾向が変わっていきました。ニューミュージックの時代はミュージシャンもお客も大人しいもんだったけど、パンクは何が起こるかわからない緊張感がありました。客とバンドで喧嘩はするわ、ビール瓶が投げ込まれるわ、機材は壊すわで……。最初は抵抗感がありましたけど、僕としてはやっぱりそっちのほうがおもしろいと思っちゃうんですよ(笑)。
東京ロッカーズの連中はそれほどまでじゃなかったけど、ハードコアとノイズ系のライブなんて本当にひどかった(笑)。シンバルや傘が水平に飛んできますから。警察と消防もしょっちゅう来るしね。
非常階段のライブの翌日には、スタッフ全員から呼び出されました。汚物やら腐った納豆やらミミズが撒き散らされていて、「昨日のようなライブをするバンドを出し続けるなら、全員やめさせてもらいます!」って怒られちゃって……。
――壮絶ですね……。
ホントにこのままなら誰か死んじゃうんじゃないかって状態まで行ってしまって、最終的に安全や衛生を優先してロフトは、ノイズやハードコア系のライブからは撤退しちゃうんですけど、すごく気が重い決断でした。なにせ、自分としてはそういう先が全く読めないような混乱状態が大好きだったしね。それは今も変わりません。
あとは、そういうめちゃくちゃな状況がおもしろかったっていうのもあるけど、単純に若い連中の新しい波に可能性を感じていたっていうのも大きかったですね。ハードコア系とは別に、ARBやルースターズ、アナーキーだったり、ちょうど新宿ロフトのキャパに合致した人気バンドもいて、その時代の御三家的な存在になっていきました。