50年前の奇襲

ハマスによる攻撃は、なぜ10月7日だったのか。まず土曜日は、ユダヤ教徒の休日である。安息日と呼ばれている。この日には労働が禁じられている。戦争を始めるなら、ユダヤ人が仕事しない日にした方がいいという理由であろう。特に10月7日は安息日の中でも、ひときわ大切な祭日だった。もうひとつは、アラブ側の奇襲でイスラエルの足元がふらついた事件が、ちょうど50年前のほぼ同じ頃、10月6日に起きている。1973年の第四次中東戦争である。このときは、エジプトとシリアがイスラエル軍を奇襲した。当初は成功してイスラエル軍は苦境に陥った。

この奇襲の情報は、イスラエルの諜報機関から政府にあがってきていた。しかし、イスラエル政府はそれを本気にしなかった。なぜなら1967年の第三次中東戦争で、イスラエルはエジプトやシリアに大勝していたからである。あれだけやられたアラブ側が、まさか仕掛けてこないだろうと油断していた。

今回のハマスの攻撃への対応も、それと似ている。事前にエジプト側から攻撃の情報がもたらされていたという。しかし、イスラエル側は油断していた。イスラエル軍が強く、ハイテクによる監視体制、防御体制も完璧であると確信していた。ガザの内部からロケット弾を撃つことはあっても、大規模な越境攻撃は仕掛けてこないだろうとたかをくくっていた。そのおごりがスキを生んだ。イスラエルは、この50年間で何を学んだのだろうか。

奇襲への対策では、イスラエルは過去の教訓を生かせなかった。しかし逆に、経験が足かせになった面もある。たとえばイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相とハマスとの関係である。

【パレスチナ戦争】なぜイスラエルはハマスの奇襲を予期できなかったのか。第四次中東戦争時の奇襲との共通点_3
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ネタニヤフにとっては、イスラエルとの和平に消極的なハマスの存在は便利であった。ガザを支配するハマスと、ヨルダン川西岸を支配するパレスチナ暫定自治政府は対立している。パレスチナが分裂したままであれば、イスラエルは和平交渉をしたくても相手が存在しないと言い訳ができる。和平を進めたくなかったネタニヤフにとっては、これは悪くない。和平を停滞させて、ヨルダン川西岸へのユダヤ人の入植を加速させるのに好都合であった。

たしかにハマスは脅威だが、制御できる程度の脅威である。ネタニヤフはそう考えていただろう。これまでもハマスの力が大きくなりそうになるとイスラエルは攻撃して、その力を削いだ。伸び過ぎないように、〝芝を刈る〟必要はあったが、そのコストは知れていた。芝を刈るための戦争を、イスラエルはハマスと4回戦った。イスラエル側の兵士の犠牲は許容できる範囲だった。

こうした過去4回の〝芝刈り〟の経験から、ハマスが大規模な奇襲を計画しているとはネタニヤフは予想しなかった。そして10月7日に奇襲攻撃を受けた。

写真/shutterstock

なぜガザは戦場になるのか - イスラエルとパレスチナ 攻防の裏側(ワニブックス)
高橋和夫
【パレスチナ戦争】なぜイスラエルはハマスの奇襲を予期できなかったのか。第四次中東戦争時の奇襲との共通点_4
2024/2/8
1089円
256ページ
ISBN:978-4847067006
激化するイスラエルのガザ地区への攻撃。

発端となったハマスからの攻撃は、なぜ10月7日だったのか――

長年中東研究を行ってきた著者が、これまでの歴史と最新情報から、
こうした事態に陥った原因を解説します。

・そもそもハマスとは何者なのか
・主要メディアではほぼ紹介されないパレスチナの「本当の地図」
・ハマスを育ててきた国はイランなのか、イスラエルなのか
・イスラエル建国の歴史
・反イスラエルでも一枚岩にならないイスラム教国家
・アメリカが解決のカギを握り続けている理由
・ガザの状況を中国、ロシアはどう見ているのか
・本当は日本だからこそできること

など、日本人にはなかなか理解しづらい中東情勢について
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