人間適格:
尊敬の奪取から尊敬の創造へ
それは尊敬を奪うのではなく創り出せばいいのである。
尊敬という価値は誰もが今この瞬間から創り出すことができる。ためしにまずは目の前の人を尊敬してみることだ。するとその相手も尊敬で返してくれるだろう。こうして尊敬を「限りある資源」から「無限に生み出せる価値」に変えてしまえばいいのである。尊敬を無尽蔵に生み出せるようになればマウンティングは無意味になる。
このことは霊長類の生態からも示唆される。
霊長類の中でも昆虫を含む広義の動物を食べる雑食のサルは、動物というエサを得られる機会が比較的少ないことから、常にマウンティング行動をとって上下関係を確認しているとされる。そうしなければ、狩猟を終えるたびに肉という限りある資源の配分をめぐって激しい争いが巻き起こり、種の生存が脅かされるからだ。
一方で、そこら中に無尽蔵に生えている植物を主に食べるゴリラはこうしたマウンティング行動はとらない。それどころか、自分が食べている植物を欲しがる他のゴリラが周囲にいたらそれを惜しみなく分け与えるそうだ。
スイーツカフェ動物園を例にとるまでもなく、我々はみな霊長類の一種である。だとすれば尊敬という価値を「有限の奪い合い」から解放して、協働しながら「無尽蔵に創造」していけばいい。
あくまで練習として、読者の皆様が読んでいらっしゃるこのエッセイの作者を尊敬してみてはどうだろう。繰り返すがただの練習であって宣伝狙いではない。ものは試しで「これまで読んだ中で最高のエッセイ」と、この本の写真付きでSNSに投稿してみよう。私はそんな素直で心が広い読者の皆様を尊敬する(本当に)。
こうしてめでたく相互尊敬が生まれるわけだ。
といわれても、どうしても「初めに自分から相手を尊敬する」のは難しい、という人もいるだろう。自分は自己愛が強すぎるから、と、あきらめる人もいるかもしれない。だが実は自己愛の延長で相手を尊敬することもできる。むしろ次にみていくように、論理的には自己愛が強すぎる人ほど他者を尊敬してしかるべきだ。
その前提として、我々は他者と交流する中で他者の中に自己を発見する。
難しい話ではなく、誰かと話していて「あっ、分かる、分かる」という経験がある。これは「自分の考えの一部が相手と共通していた」「自分の一部を相手に見出した」ということだ。
だとすれば、自己愛が強い人は、自分と何かが共通する人に対して「少なくとも自己との共通部分は尊敬できる」はずだ。そうでなければ自己愛が弱すぎる。論理矛盾だ。そして自分から相手を尊敬すれば、少なくとも相手は「自分を理解してくれた」という一点では自分を尊敬してくれるはずである(そうならない相手とは付き合わなければよい)。こうして相互尊敬が生まれ友情が育まれる。
友情とは相手の中に自分の分身を見つけ、自分の分身を愛することを通じて、自己愛から他己愛へと至る感情なのである。
ここでみてきたように虚勢もまた経営でできている。
一度立ち止まってこのことに気が付けば、グルメアピールのし過ぎで体型と健康を破壊してしまったり、多忙アピールに必死になって恋人と破局したり、人脈アピールによって周囲から人がいなくなったりといった、凡百の悲喜劇を回避することもできよう。
参考文献
キケロー『老年について友情について』、大西英文訳、講談社、2019年。
瀧波ユカリ・犬山紙子『女は笑顔で殴りあう:マウンティング女子の実態』、筑摩書房、2014年。
Veblen,T.(1899).The theory of the leisure class. New York,NY:Macmillan.邦訳:ソースタイン・ヴェブレン、ジョン・ケネス・ガルブレイス(序文)『有閑階級の理論[新版]』、村井章子訳、筑摩書房、2016年。
山極寿一『暴力はどこからきたか:人間性の起源を探る』、NHK出版、2007年。
山極寿一『「サル化」する人間社会』、集英社インターナショナル、2014年。
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