幅広い「哲学対話」仏教思想から宇宙観まで
2001年、『中陰の花』で芥川賞を受賞した臨済宗僧侶の玄侑宗久さん(福島県三春町の福聚寺住職)。仏教や禅を背景にした小説や著作を数多く出してきたが、2月には、「死」や「生」についての広範な哲学対話『むすんでひらいて 今、求められる仏教の智慧』が刊行される。聞き手の哲学者、大竹稽さんと3年近く、メールで丁寧にやりとりしたものをまとめた。
「死」は、コロナ禍やロシアによるウクライナ侵攻で世界的に日常化している。二人とも身近な若者の自死も経験したことから、大竹さんが、死生観にも詳しい玄侑さんに「死の意味」を問いかける格好でスタートした。「生きる意味」を考え合い、いのちや魂の根源、それらを貫く仏教思想・宇宙観にまで対話は深まった。「仏教の魅力は私などの理解を遥かに超える」(玄侑宗久「はじめに」より)、と玄侑さんは言う。
なかでも玄侑さんが強調するのは「華厳」の教えである。人がこの世を支配しているのではなく、山川草木すべてが一つの命から生まれた対等の存在で、全体として生態系を形成していると指摘。いのちは「みんなと一体」で、序列や力による覇権を無化する。これこそがロシアの覇権主義などを「解毒」する教えだと語る。
本のタイトル『むすんでひらいて』は懐かしい児童唱歌からとった。どんな思いが込められたのか。思い込みや自己規定で自らを固く「結ぶ」(自縄自縛)のではなく、自らを「開く」という解放への可能性の話だろうか。人間関係から国際関係に至るまで、「融通無碍」の世界が待っている。
聞き手・構成=土岐直彦/撮影=佐藤祐樹(Grit)
――『むすんでひらいて』というこの本は対話形式ですが、昔で言えば交換日記のような感じです。会ってしまえば3時間ぐらいで終わるものを、1日とか間を措くことによって、質問する側も理解できなかったことを考えたりできる面白い形式の原稿だと思います。先生(玄侑さん)はいかがでしたか?
自分一人では決して考えつかないようなことを問いかけられるので、面白かったですよ。私のなかで未整理だった仏教思想を総点検する作業にもなりました。
実は前に私、岸本葉子さんと「いのち」についての往復書簡の本を出したことがあるんですけど、ほぼ同じ分量なんです。問題は中身ですけど。
―― 聞き手の、仏教についての寺子屋を主宰している大竹さんは、自分が不惑の40歳を超えてもお悩みのようで、それを先生に相談するというスタンスで始まったものが、最後は仏教の奥義、華厳の世界について、わかりやすく語る方向に導かれていきます。初めから意図されていましたか?
いや、意図してはいませんが、うまいことご縁が結ばれていったという感じですね。意図が強すぎるのもどうかと思うし、意図と自然にそうなった部分と、両方ないと面白くないでしょう。でも結局、私が自由に語らせていただいた感じですかね。
「コロナ禍とウクライナ戦争」というテーマから始まるじゃないですか。二つの問題に対する特効薬は「華厳の思想」だろうとは当初から思っていたのですが、それだけでは済まなくなって、話はどんどん深まりつつ広がり、「空」や「唯識」から「渾沌」や「気」、ついには「菩薩道」にまで及んでいます。
他者の命を奪う「戦争」
最初の「殺人」は創世記に!
―― ウクライナ戦争が2022年に始まり、日々テレビの報道やSNSの発信で、死の映像を頻繁に目にします。その前の2020年からのコロナ禍で、日本中の人々が行動制限されて、死が日常にも迫るものとして感じられるような不思議な3年間を、私たちは過ごしました。この本の対話は、こうした時期に行われたのですが、この数年間を通して日本人の死生観は変わったと思いますか?
ううん。例えば東日本大震災で多くの死にわれわれは遭遇しましたけど、それによって変わったという感じはしますよね、とにかく命は大事にしたいという。ところがコロナとウクライナ戦争では、全然そういう方向に向かっていない。日本の国内でも大量殺人とか、あるいは若者の自殺が多く、「命の大切さ」が言われない。
これは何なんだろう、日本中が西洋的な感覚になってしまったのかなと。その説明のために創世記の話をします。神様が創造したアダムとイブが原罪を背負うきっかけはヘビにそそのかされて知恵の木の実を食べたことですが、イブは「ヘビにそそのかされたんだ」と見苦しい言い訳に終始するわけです。
―― それが人類の元祖なんですもんね。
そうそう。しかも、カインとアベルという二人の息子ができて、兄のカインは農業を、弟のアベルは放牧をしていましたが、神へのお供え物をしたら、アベルの方を神は気に入った。ねたんだカインはアベルを殺す、弟をですよ。世界で最初の殺人がそんなに早い時点で起こっているわけです。
―― それも嫉妬による殺人です。
ええ。翻って今、イスラエルとパレスチナの問題も本当に底なし沼に入っていて、非常に憂慮しています。殺戮を正当化する理由はどちらにも幾らでもあります。
―― 殺戮の連鎖は結局、憎しみを次代に持ち越す。それを私たちはライブで映像を見ながらも、自分事として感じられなくなっている。
そう思いますね。それこそ、第三者の死って身に迫らないんですね。それで、他者の命を奪うという「困ったこと」をする人たちが増えてきたんじゃないでしょうか。カインの末裔になっちゃったんですよ。しかも言い訳して、人のせいにして。
―― 生々しい死を隠そうという風潮も、死の重みをわからなくさせますね。例えば東日本大震災において、亡骸がそのままになっているような状況をあえて日本のメディアでは伏せました。また現場で救助活動をされた人たちにはすごく深い悲しみや動揺があったと聞いています。でもそれらを公表することはできなかったと。
できなかったですね。遺体は映さないという自主規制が、明文化されてはいないんですが、あったんですね。ちょうど民放連の集まりに講演で呼ばれて行ったんですが、そこで明らかに自主規制していたっていう話をしていました。
―― 先生の『華厳という見方』というご本にも書かれていましたけれど、そういう忖度を求められているのが今の日本の現状で、閉塞感につながるということなのでしょうか。
ええ。つまり反対の意見の人と話し合う方法を、持ってないんですね。反対の考え、例えば汚染水、福島県の原発からの処理水の処分方法をめぐっても、漁民らとの合意手続き自体を踏まないわけですから。手続き自体を踏まないで、政府が勝手に決めた事を通達したわけです。考えられないですよね。本当に、戦時中と一緒だなという感じですね。
―― 先生は、今の世情の空気というか、昨今の軍備増強などの動きを非常に危ういと思っていらっしゃるんですね。
まあそうですね。
―― コロナ禍のときの「自粛警察」だったり、マスク装着を監視する「マスク警察」みたいなものが諸外国より日本は目立ちましたが、日本は忖度社会ゆえに自主規制で済んでしまうというのは、逆の意味で恐ろしいことですよね。
そうですね。「翼賛会」がいっぱいできたんですね。
―― ああ、戦時中の。そういう名前ではないけれど、(大政)翼賛会的なものが日本のあちらこちらに生まれてしまうきっかけが、コロナ禍での振る舞いにありましたよね。
ええ。仰るとおりだと思います。