最後に登場する意外な証言者
―― 定さんの生涯のどこまでを書くかは最初から想定されていたのですか。
連載が後半にさしかかったところで編集者と打ち合わせをしました。殺したところで終えてもおかしくはなかったんです。でも、ほとんどの読者は彼女が長生きしたことを知らないのでその意外性も書きたいし、お定さんが辿りついた境地をちゃんと描写しないと、本当に彼女を書いたと言えないんじゃないかと考えました。その時の打ち合わせで、吉蔵の視点を書くかどうかも相談をしました。
―― そう、最後に登場する証言者が、亡くなった吉蔵なんですよね。あそこが本当に良かったです。吉弥さんの創作の悩みも描かれてきただけに、この小説の書き手であろう彼がここに辿りついたのか、という意味でも胸が熱くなりました。創作者の技を見た、という気持ちです。吉蔵さんに関しては写真すらあまり残っていないようですが。
吉蔵さんは生まれた家や来し方が全然分からないんです。麻布にお墓があるので、麻布の出だったのかなと思い旅館の息子という設定にしたんですけれど。
吉蔵の証言については、三分の二くらいまで書いたところでひらめいたんですね。絶対に聞けるはずのない死者の声を、読者の納得いく形で現代によみがえらせるというのは、物書きの大きな仕事だと思います。お定さんもきっと吉蔵の声を聴きたかっただろうし。
―― この二人は本当に、どうしようもなく“出会ってしまった”のだなと感じました。
そう思ってほしくて書いた物語なので、ほっとします。
自分はそんなことはしないということと、する気持ちは分かるということは両立すると思うんです。今の世の中、自分と似た登場人物に共感できる小説がクローズアップされている感じがしますけれど、小説の良さってそこだけじゃないですよね。自分とかけ離れてはいるけれど人間にはこういう瞬間があるかもしれないと思えるような、自分の中に新しいポケットがひとつ増えるみたいな小説をできれば書きたいなと思っています。
連載中は、ずっと自信がなかったんです。ただ、自分に都合のいい解釈なんですけれど、「今回はうまく書けたぜ」と思うものって、結局、今の力の範囲内で書いたということだと思うんです。不安になる時は、これまで超えられなかったところを超えようとしているんだろうな、って。もちろんどこかでは「いい」と信じて書くけれど、自信満々にならないくらいのほうがいいんだろうなと思うようになりました。
―― ところで、Rは物語の前半で、アナキストの金子文子の映画を撮影していますよね。村山さんご自身も金子文子に興味がおありなのかと思いました。
はい、あります。あの人も、なにも獄中死しなくても……と思うし、よく分からない部分があるんです。よく分からないほうが書き甲斐がありますね。
―― すっかり村山さんに評伝小説の書き手というイメージが加わりました。
評伝小説ならではの大変さもあるんですが、評伝小説ならではの楽さもあるんですよ。あまり楽をしないほうがいいなと思っていて。それこそ渡辺淳一先生が、評伝小説を書くのは七十代くらいになってからでいい、とおっしゃっていたんです。評伝小説はいつでも書けるから、体力があるうちは創作の小説を書くんだ、って。すごいですよね。
―― すごいです。評伝小説といっても、村山さんはその人の人生を直線で辿るのではなく、構造からしていろんな工夫と技巧があって、作家の創作性の醍醐味もたっぷりです。
そう言っていただけると、ちょっと胸張っていけます(笑)。