江戸時代の怪談とネット怪談、内容の違いはあまりない
–––梨さんは『その怪文書を読みましたか』展(以下、怪文書展)のようなリアルイベントやインターネットの記事、書籍、映像など、さまざまな媒体でホラー作品を発表されています。発信する媒体によって、受け手側の感じる怖さは変わると思われますか?
書き手としては、怖さの本質は特に変わらないと思っています。それぞれの媒体によって怖さを効果的に感じてもらうための「出力方法」が変わる、という感じですね。
たとえば怪文書展は、リアルイベントだからこその演出の仕方で、怖さが最大になるように設計しました。書籍化にあたっては、また違う方向で怖くなるように編集者の方が尽力してくださいました。怖さの核は変わらないけれど、核へのアプローチ法が変わる、という感じでしょうか。(梨さん、以下同)
–––「怖い話」というものは江戸時代、ひいては平安時代の源氏物語にも「生霊」という概念が出てくるなど、昔から存在するものですよね。現代のネット怪談や都市伝説に至るまで、「怖い話」にはさまざまな変遷があったと思うのですが、梨さん的に一番興味深いと思う変化は何でしょうか。
私自身は、「怪談の内容はそんなに変化していない」と思っていて。以前、大学の研究としてネットロアと古典怪談の内容を分析したことがあるんです。そうしたら、意外と違いがないことがわかりました。「洒落怖」の八尺様と、江戸時代の『雨月物語』にある「吉備津の釜」には似たようなシーンがあるんですよ。
媒体は時代によって変わっていくので、それを活用した話が新しく出てくることはあります。たとえば、「不幸の手紙」が、時代を経て「チェーンメール」になったり、インターネットが出てきてネット掲示板の形式を利用した怪談が生まれたり。でも「四谷怪談のお岩さんが井戸から出てくる」が「リングの貞子がテレビから出てくる」になるのって、内容的にはほぼ同じですよね。
恐怖の根源というものは今も昔も、超自然的なもの……たとえば幽霊や怪異、あとは死、身の危険が迫ること、不可解なこと、人の悪意などに収束するのではないでしょうか。