寺は死者にとっては「狭き門」
ロシアの奥地、いわゆるシベリアやそのもっと北方の北極などに行くと、こうした凍結した大地では「土葬」はできない、ということに気がつく。表面の地層は3、4メートルほど永久凍土だから遺体を埋めるとたちまち凍結保存という状態になり、ずっとそのままになってしまう。シベリアなどはまだタイガという広大な針葉樹林地帯があるから火葬はできるだろうが、北緯66度より上の森林限界をすぎた北極になると、もはや燃やすものはまったくない。
アラスカ、カナダ、ロシアの極北地帯にも行ったがぼく自身が自然の猛威に耐えるのが精一杯で、葬送の方法を聞いてまわる余裕はなかった。想像するに海に流していたのだろうが、極寒の季節での葬送となると海も凍結するからその方法もとれない。
『江戸の町は骨だらけ』(鈴木理生、ちくま学芸文庫)では遠いむかしから人口過密が大前提であったお江戸では埋葬のために地面を掘るのも大変だったということがよくわかる。最後まで読んで思ったのは、この地で寺に埋葬される人は「しあわせなことこの上ない」ようだ、ということだった。
寺は宗派によって死者を選別する。その信者一族の寄進などからなりたち、しばしば時の為政者にも利用される。寺は死者にとっては「狭き門」であり、菩提寺に無事埋葬されるのが死者にとって本当の意味の安住の地、ということになっていたようである。要するにエリートの死者、というわけである。
その背後にたくさんの流浪の者がいた。無宿者が飢餓などで行き倒れるとそれはまだあちこち地形の凹凸が激しかった江戸の荒れ谷や窪地、洞穴、湿地帯などの「人捨て場」に捨てられた。そういう遺体にカラスや野犬などが集まってきて、危険かつ不浄の一帯になっていく。つまり江戸時代の都はあちこちで実質的な鳥葬や風葬が行われていたのだ。
落語の「野ざらし」は大川(隅田川)に釣りに行ったご隠居さんが川の岸辺で人骨(されこうべ)を見かけ、気の毒にとふくべ(ひょうたん)から手向けの酒をそそぎ、祈って帰ると、その夜美しい女の訪問がある。大川で野ざらしだった骨は若い娘でそのお礼を言いにきた、という話だ。
きっとその時代は荒れ地などで人骨を見つける、ということがたくさんあったのだろう。
江戸時代に関東は何度か大規模な災害に見舞われてたくさんの人々が被災しているし、大火があるとたちまち広大な土地が焼き尽くされ、そこでも大勢の人がいちどきに亡くなった。生き残った人々では手がつけられないほどの死体が放置され、困ったあげくこれらは海岸に運ばれて埋め立ての基礎にもされたという。人の骨などが埋め立ての基礎にちょうどよかったのかもしれない。