宅間守と瓜ふたつの実父
当時、写真週刊誌の記者をしていたわたしは、事件が起きた翌日、午前8時発の新幹線のぞみ号で新大阪駅へと向かった。
所轄の池田警察署まで新御堂筋を車で行けば、ふだんは約30分ほどだったが、この日は大渋滞で2時間を要した。池田市内は捜査車両、救急車、報道陣の車両が行き交い、騒然としていた。
大阪では在阪スタッフ6名が取材を行っていた。わたしは被害者の聞き込み取材を担当した。亡くなった女の子のお通夜には警察官が多数配備され、葬儀場に近づくことはできなかった。哀しみと怒りで、街全体が張り詰めていた。
事件発生から3日後の6月11日14時。わたしは兵庫県伊丹市にある宅間守の実家を訪ねた。
閑散とした町並みに、近くの伊丹空港から飛び立つ旅客機の轟音が響く。町工場に隣接した2階建ての家の敷地には、壊れた家電や廃材がうずたかく積み上げられていた。阪神・淡路大震災の被害だろうか、ねずみ色の壁には数本の亀裂が走っていた。
詰めかけた報道陣に玄関先で応対する下着姿の老人が、宅間守の実父Aさん(当時68歳)だった。
頭髪は白いが、顔は守と瓜ふたつ。強烈な関西弁でズバズバもの言う父親がテレビ画面に映し出され、「この親にしてこの子あり」と世間から厳しいバッシングを受け始めた。
37歳にもなる息子が犯した罪に、親の責任はあるのだろうか。確かに守の人格形成に影響はあっただろうが、どうも釈然としなかった。
宅間守を知るためには、この父親と語るしかないと思い、ダメ元で言ってみた。
「今晩、ひとりで訪ねたいがいいか」
「何時でもかめへんで」