復讐するは誰にあり?
カントはこうも述べている。最高の立法者(すなわち神)のみが「復讐するは我にあり、我これに報いん」(ロマ書)と言いうる。何人も他人から被った凌辱を復讐する機能をもたない。なぜなら、「人間は自ら寛恕(かんじょ 広いこころを持って許すこと)を乞うべき自らの罪を多く負っているからであり、(中略)しかもとくにいかなる刑罰も、それが誰から出るにしても、憎悪から科せられてはならないからである。したがって寛恕(かんじょ 広いこころを持って許すこと)は人間の義務である」。
皆、自分の過去を振り返ってみればいい。大なり小なり、いっさいの罪を犯していない清廉潔白な人間だと胸を張って宣言できる人があろうか?だから何者も、他人を生涯復讐し罰し続ける権限をもたないということだ。
自分はキリスト教信者じゃないから神の言葉なんて関係ないし受け入れられない、という読者もおられよう。そう考える方はそれでいい。私もキリスト教信者ではない。だが、犯した悪いことを反省し謝罪する人に対して、いつまでも「お前の謝罪は真剣じゃない」と責め続け、再起を拒み続けるのはいかがなものだろうか?憎むべき相手だが、いつかやり直す機会を認めるという思考はないだろうか?
謝罪する側にも「何でここまで責められる」と納得しきれない部分が残っているだろうし、被害者側にもこいつは絶対に許せないという気持ちはあるだろう。しかし人間社会を維持していこうとするなら、前者は真摯に謝り、後者は相手の謝罪を受けとめ、そうやって一応の決着をつけるというのが、人間の知恵ではないだろうか。
とはいえ……
だが裁判による決着、あるいは寛恕の心といっても、復讐心が人間社会から消えることはないだろう。言い方を換えると、裁判や刑罰という人類の知恵も、人々のさまざまな軋轢や憎しみを解消することはけっしてできない。
娘を不良たちに惨殺された刑事が、その関係者の反社会的勢力の弁護を引き受けている弁護士に問い詰める。
「あんた、自分の娘が殺されたら、同じように弁護できるのか?」
弁護士は答えた。
「弁護士の使命は社会正義の実現と人権擁護だ。感情的に冷静な判断ができない依頼はプロとして身を引くべきだと考えてる」
しかしその後、こう言った。
「自分の娘がもし殺されたら、司法になんて委ねたくないね」
私が愛読している真鍋昌平の漫画作品『九条の大罪』の台詞である。
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夫婦同姓が婚姻の条件になるのはいまや日本のみである
なぜ男性は座って用をたすようになったのか
ルールとは思考停止の遵法精神を要求するものではない