息子がキャンプに持ってきていた1冊の本

翌朝は、ソウタが先に目覚めた。
夜中までの雨が嘘のように、空は真っ青に晴れている。でも、下草は雨でしっとりと濡れており、朝日に照らされて、きらきらと輝いていた。
見上げれば、富士。
小さなテントの中で号泣していた自分たちが、なんとちっぽけな存在であるかを無言のうちに教えてくれる。
すぐに竹晴もテントから這い出した。

「綺麗だねえ。今日はここで何もしないで、ゆっくりすごそう」

ソウタは家の本棚から1冊の本を持ってきていた。たくさんの時計が置かれた部屋を、つぎはぎだらけの着物をまとった人物が歩いている。男か女か、子どもか大人かも判別できない。その隣には大きな亀。大きな砂時計も描かれている。タイトルは『モモ』。作者はミヒャエル・エンデ。サブタイトルには「時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」とある。
ソウタが買った本ではない。気づいたときには家の本棚に挿さっており、おかしな表紙だなとずっと前から思っていた。なぜか今回、初めて読んでみようという気になり、カバンの中に入れてきた。
表紙に描かれている大きな亀の名前はカシオペイアというらしい。進むべきときに進むべき方向にモモを導いてくれる重要なキャラクターだ。
カシオペイアが示す道は遠回りであることも多い。モモが先を急ごうとするのをたしなめることもある。必ずしも早く目的地に着くのがいいことなのではなく、ペースやタイミングが大切だと言うのだ。
ふだんあまり本を読まないソウタだが、『モモ』の世界にはみるみる引き込まれていった。自分のまわりの風景が、モモが暮らす世界の景色と重なり、現実とファンタジーの境目があいまいになっていく。こんな不思議な本は初めてだった。
高く上がった太陽に照らされる富士山、湖面のきらめき、夜中の大雨、ウィンナーソーセージの焦げた香り、モモ、そして父の涙……。それらすべてが協力して、ソウタの心のわだかまりをいくぶんか押し流した。
テントをたたみ、荷物をまとめ、ふたりはバイクにまたがった。竹晴がセルボタンを押すと、エンジンがブルンと息を吹き返す。

「よし、行くぞ」

これから行く道は、単なる帰路ではない。いままでとは違う人生に続く道なのだと、諦めにも似た気持ちを携えて、ソウタは父の腰に腕を巻きつけた。