深夜のコンビニ、中学入試の過去問集を見開き単位で拡大コピー

ピカッ! スーッ カシャン
ピカッ! スーッ カシャン
ピカッ! スーッ カシャン
さらに五〇〇円玉を投入する。
チョリン
機械の中で硬貨の山に五〇〇円玉がぶつかり、鈍い音をたてる。
なんでこんな時間に、俺がこれをやらなきゃいけないんだ。あのひとはいまごろきっとすやすや寝てるんだろう……。余計なことを考えたら手元が狂い、理科の問題の最終ページが若干斜めってしまった。
くそっ。
妥協は許されない。失敗したコピー用紙を二つ折りにして、コピー機の脇にあるゴミ箱へスッと差し入れる。もう一度、丁寧にコーナーを揃えて、拡大率を確認し、コピーボタンを押す。すでに二〇分以上、何十回とコピーボタンを押している。考えてみればたかだか二〇分程度ではあるが、もう何時間もこうしているように感じる。これ以上やっていたら、コピー機と自分が一体化してしまいそうだ。でも、あと一年分残っている。
うっかり深呼吸をしてみるが、コピー機が発する光と音と熱とで汚染された、深夜の都心のコンビニの空気は、金井穂高の全身の細胞をいっそう気だるくさせるだけだった。
ずいぶんとくたびれた背広姿のサラリーマンが、五〇〇ミリリットルのストロング缶を一本レジに差し出し、タバコの番号を伝える。「ポイントカードはありませんか?」。若い店員のイントネーションから、彼が外国から来ていることがうかがえる。
長男のムギトが小六の二学期を迎えてから、週二〜三回のペースで、穂高はこのコンビニに通っている。中学入試の過去問集を見開き単位で拡大コピーするためだ。たとえばW大学高等学院中学部の二〇一六年度入試は、問題だけで二五ページ、解答用紙が四ページ、解答解説が一六ページ。合わせて二五回コピーしなければならない。
第一志望校と第二志望校については一〇年分をぜんぶやれと塾から言われている。第三志望校については五年分。それ以外の学校は三年分。しかも複数回受験を行う学校の場合、ページ数は二倍、三倍になる。
拡大コピーしただけでは終わらない。カッターで余白を切り取り、できるだけ本物に近い形で取り組めるように整える。そこは広告代理店に勤める穂高自身の職業柄ゆえのこだわりなのだが。仕事の合間を縫って、その作業を行う。
流れ作業になれば一枚あたり一〇秒ほどでコピーはとれるが、問題を解く子どもは一枚一枚に何十分という時間をかける。中学受験生の親として、これくらいのことはしてやらなければならないことには合点がいく。しかし、なぜ、あのひとは知らんぷりなんだ? 妻の杏のことである。

午前2時のコンビニで過去問コピーを取る夫、そのとき専業主婦の妻は……。【おおたとしまさ新刊『中受離婚』一部試し読み】_1
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「A3のコピー機をリースすればいいじゃん」

いくら家事や育児が忙しいといったって、専業主婦なんだから、俺よりは時間の自由もきくだろう。子どもたちが小学校に行っているあいだに、家の近所のコンビニでコピーくらいしておいてくれてもいいだろう。それを自分がカッターで整えるという役割分担なら納得できる。でも、あのひとは何もしてくれない。
コピー機のガラス面に過去問集を伏せて置き、ページをまたぐ部分ができるだけ黒い影にならないようにぎゅっと力を入れながら、ボタンを押す。コピー機が発する一瞬の閃光の中に妻の顔が浮かんでは消えていく。そのたびに、ほとんど怒りに近いみじめな感情が自分の中で脈打つようにこみ上げてくる。でも、これも自分の「仕事」だから、やるしかない。
ちょっとは手伝ってくれないかと、杏に頼んだことはある。頼んだというよりはほとんど吐き捨てるように、ちょっとはやってくれてもいいだろうと、当たってみたことがある。杏の返事は、「A3のコピー機をリースしているおうちも多いらしいよ。そんなに大変なら、うちもそうすればいいじゃん」だった。「そういう話じゃなくね?」と反論すると、「だって、あなたが自分でやるって言ったんでしょ。私がやってもどうせ曲がってるとかなんとか文句言うでしょ」とあっさりとかわされる。
おしゃべりで、社交的で、外そ と面づ らはいい。存在感があり、学生時代から目立っていた。でも、性格は大雑把で、家の中では完全におじさん化している。コロナ禍になって、家でいっしょにすごす時間が増えてわかったことだが、子どもが小学校に行っているあいだ、いつもテレビで情報バラエティー番組ばかりを見ている。
社交的なわりには、友人が少なく、誰かと連れだって出歩くこともあまりない。もともと文学少女で、どこか陰がある。その陰の正体が何なのか、夫の穂高にもわからない。もしかしたらそのせいで、子どもを褒めてやれないのかもしれない。子どもの身の回りの世話はしっかりしているほうだと思うが、褒めているのを見たことがほとんどない。
国語の解答用紙をコピーして、この日予定していた分のコピーがようやく終わった。深夜二時をとっくに回っている。コピーの四つ角をきれいにそろえ、A3の封筒に入れ、広告の図版などを運ぶときに使う仕事用のカバンに丁寧にしまう。硬貨返却ボタンを押すと、百円玉と十円玉がジャラジャラと落ちてきた。それをいったんポケットにしまい、おつまみコーナーでチーカマを、ドリンクコーナーでチューハイの三五〇ミリリットル缶を手に取り、レジへ向かう。
「袋もお願いします」
ポケットからさきほどの小銭を取り出し、足りない分を財布から補う。
表に出ると人通りはまばらで、流しのタクシーをすぐにつかまえられた。
「とりあえず、都立家政の駅を目指してください。そこから先はまた説明します」
「はい」
タクシーの窓を少しだけ開ける。流れ込む都心のビル街の空気には、日中のほてりがまだかすかに残っていた。
「運転手さん、ちょっとこれ、飲んでもいいですか?」
「どうぞ」
「どうも」
チーカマのビニールをむき、炭酸が吹き出ないように注意しながら缶チューハイのプルタブをゆっくりと開ける。爽やかな刺激が喉を通り抜け、乾いた体に沁みわたる。チーカマをひとくちかじると、さらにもうひとくちチューハイを飲みたくなる。さきほどまで打ち寄せていた怒りに似たみじめな感情の波がクールダウンしていく。こうやって、やりすごすしかない。
帰宅してすぐにシャワーを浴びて床に就いたとしても三時過ぎ。二時間ちょっとしか眠れない。朝六時からはムギトとの朝勉強の時間だからだ。
杏はあとから起きてきて、家族全員分の朝食をつくる。その間、穂高は洗濯機を回し、それを干してから出社する。コロナ禍で在宅勤務も可能だが、狭い家の中で杏と一日中いるのは気が重い。できるだけ出社するようにしていた。

小四のころ体育会系の夫の興味はバスケに向いていた

中学受験を言い出したのは杏のほうだった。杏は首都圏の郊外出身、穂高は熊本の出身で、どちらにも中学受験経験はないが、ふたりが出会ったW大学には、私立中高一貫校出身者の友達も多く、なんとなく雰囲気は知っているつもりでいた。現在住んでいる中野区では、中学受験はごく一般的なことであり、杏はママ友から情報を得ていた。小学校では低学年から塾に通う子も多く、ムギト自身も「塾に行ってみたい」と言っていた。小三のときだった。
Wアカデミーを選んだのも杏だった。真面目な性格のムギトのことだ。熱血講師に厳しく指導されれば、必死にそれに食らいついてくれそうだと判断した。Wアカデミーはそういう塾だと聞いていた。小三の二月から、最寄りのWアカデミーの校舎に通い始めた。
理科の先生がこんな話をしてくれた――。算数の先生がこんな解き方を教えてくれた――。小学校の先生とはちょっと違う、ある意味癖のある先生たちから、さまざまな刺激を受け、感化されているのがわかった。中学受験塾って、ただ勉強を詰め込むところではないんだなと知った。
三つある小四クラスのうち、いちばん上と真ん中のクラスを行ったり来たりしていた。御三家といわれるようなトップ校を狙える感じではないけれど、頑張れば、それなりの有名校には手が届くのかなという手応えは当初からあった。
でもまだ小四の時分には、穂高の興味はバスケットボールに向いていた。小学校に入った直後から、ムギトは地元のバスケのクラブチームに所属している。専門の指導者がついているので、お父さんコーチは必要とされないが、毎週末の練習や試合には穂高が付き添い、ムギトに熱心なアドバイスをおくっていた。
高校までバレーボールで鍛え、体育会系精神が染みついている穂高は、バスケについては厳しかった。練習での課題を明確にし、克服し、試合で成果を出すことをムギトに求めた。やると決めた練習をサボったときには厳しく叱った。男と男の約束は絶対だった。

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両親ともに公立出身で中学受験の経験はなかった

一方、杏も、受験勉強にはノータッチだった。勉強を見てやるようなことはないけれど、テストの結果が悪いと、結構な口調でムギトをなじった。穂高は杏のその態度に、ひっかかりを感じていた。そんなに言うなら、少しは勉強を見てあげればいいのに……。
杏はもともとひとを褒めるのが上手なほうではない。でもただ叱ったって子どもの成績が伸びるはずがない。何を頑張ればいいのかすらわからないまま叱られ続けたら、子どもは壊れてしまう。解法まで親が教える必要なんてないけれど、勉強のやり方くらいは教えてやってもいいんじゃないだろうか。とはいえ、穂高自身が手を出すつもりもない。
小五になっても、穂高はバスケを優先させた。同学年には上手な子が何人かいて、このチームなら都大会の上位を狙えるのではないかと、皮算用していた。ただ、月に一回の組み分けテストの送り迎えは担当したし、K城、K東、S鴨、M蔵、W中高、W学院など、気になる学校の文化祭には、家族みんなで楽しく参加した。それぞれの学校の違いがよくわかった。
なかでもムギトが気に入ったのが、W学院、つまりW大学高等学院中学部だった。施設が充実しており、家からも通いやすく、そして何より、両親の母校であるW大学に内部推薦で進学できる。
W大学系列の高校には「付属校」と「系属校」の二種類がある。付属校はW大学の直系。系属校は別法人によって経営されている学校だ。直系の付属校は、東京都練馬区にあるW学院と埼玉県にあるW本庄の二校。W本庄は高校のみで中学受験はできない。大学の隣にあるW中高は実は別法人が運営する系属校だ。
自分の母校への進学を希望してくれていることについては、嬉しい半面、大学受験で頑張る姿も見てみたいというのが穂高の本音ではあった。
穂高自身、高校まではほとんど勉強もせず、バレーボールばかりしていた。浪人中に通った予備校で人生が変わった。生まれて初めて勉強が面白いと感じられた。予備校の講師たちは受験勉強だけでなく、哲学書などさまざまな書物の読み方まで教えてくれて、世界の広さを知った。
一年でぐんぐんと成績は伸び、東大を狙えるまでになった。数年前までは考えられないことだ。そもそも穂高の両親は高卒。四人きょうだいの上三人もみんな高卒。大学進学を志したのが、家族の中では穂高が初めてなのだ。親戚中を探しても、東京の大学に行った者はほとんどない。金井家の期待を一身に背負っていた。
東大にはあと一歩届かなかったものの、穂高のW大学進学は、地元の小さな町でもちょっとした話題になった。その成功体験があるから、戦略的、計画的に努力を重ねれば、受験はひとを成長させると穂高は信じている。中学受験なんてやってもやらなくてもいい。本丸は大学受験だと思っている。ムギトだって、大学受験で頑張れば、東大は無理にしても一橋や東工大には受かるかもしれない。そんな七年後も見てみたかった。
大規模な模試では、志望校を上から順番に書いて、それぞれの合格可能性が示される。第一志望の欄に、ムギトはW学院と書いた。でも、結果は散々だった。本人任せには限界がある。親の関与が必要だと穂高は感じた。
一方、杏は相変わらずテストの結果を叱るだけ。叱るというより、単にけなしているようにすら見える。ムギトなりに頑張っているのに、褒めている感じをついぞ見たことがない。
杏の家族でも、大卒は杏一人だけ。高校までは地元の公立に通ったが、いわゆる地頭がいいのか、大学受験では塾の力も借りずにW大学に合格した。だから、できない子の気持ちがわからないのだと、穂高は見立てる。「いいところを見つけてもっと褒めてやりなよ」「叱るんじゃなくてやり方を教えてあげたほうがいいんじゃないの?」と、穂高は杏に求めるが、のれんに腕押し。
もどかしい膠着状態が長引いた。口を開けば雰囲気が悪くなるので、夫婦の会話はどんどん減っていった。

堪忍袋の緒が切れた。 「いい加減にしろ!」

家庭の中で大きな地滑りが生じたのは小五の一一月のことだった。
日曜日の夜、バスケチームの幹事会に参加していた穂高が帰宅すると、その日受けた組み分けテストの自己採点結果を前にして、杏が大声でムギトを罵倒していた。
「なんでこれしかとれないの?」
「理由を説明しなさい! それができなかったら改善のしようもないでしょ」
「ちゃんとやってるならこの成績でもママは怒らないよ。でもあんたはさぼってばかりだったじゃん。ユウマくんは朝早起きして勉強してるってよ。カリンちゃんは毎日自習室に通ってるってよ」
「W学院に行きたいんでしょ。でもこれじゃ、W学院どころか、どこも受かんないよ」
「やる気がないんだったら、中学受験なんてやめちゃいなさい。ママは全然構わないよ。ていうか、いまのあんたに中学受験をする資格なんてないんじゃないの? 自分ではどう思ってるの? ねぇ、泣いてばかりいないで、ちゃんと答えて!」
何を言われても、ムギトはさめざめと泣くばかりである。
杏がしっかりムギトの中学受験にかかわったうえで、結果について不平を言うならまだわかる。でも手を貸すようなことは何もしていないのに、結果だけを見てこれほどまで責めるのは卑怯じゃないか。そうは思いつつ、ひとまず穂高は黙ってなりゆきを見守る。
怒りが収まらない杏は、ムギトの両腕をぎゅっとつかんで、「このまえあなたは、悪い点だった算数のテストを隠してたでしょ。ママ、見つけたんだからね。そうやって自分をごまかしてばかりいるからこんな点しかとれないのよ!」と、妹も見ている前で過去の話まで持ち出して糾弾している。もしかしたら、テストの一件を穂高にも伝える意図があったのかもしれない。
恐怖でおののくムギトに杏は容赦なくたたみかける。
「自分でできないんだったら、私が勉強を管理しようか」
やるつもりもないのに、嫌みとして言っているだけの杏の言葉が、穂高の堪忍袋の緒を切った。
「いい加減にしろ!」
あらん限りの大声を出してダイニングテーブルを叩いた。マンションの隣の家まで聞こえているかもしれない。

以降、ムギトの受験は、夫婦はどうなってしまうのか!?  続きはぜひ書籍でお楽しみください

※本記事は、『中受離婚 夫婦を襲う中学受験クライシス』(集英社)を編集部が一部抜粋・再構成したものです。また本書は多数の取材を元にしたセミ・フィクションで、取材対象者のプライバシーを配慮し、登場人物や学校名などはすべて、近しい別の学校や塾などに変更したうえで仮名表記としています。受験の年次なども一部変更しています。

『中受離婚 夫婦を襲う中学受験クライシス』大絶賛発売中

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