中学受験はさせてもいいが、子育ての優先順位を間違えてはいけない
もうほとんど日は暮れていた。無数の虫の音が、地面を震わす微細なバイブレーションのように、あたり一面に響いている。
レンタルした焚き火台に、集めてきた落ち葉と小枝を盛り、マッチで火をつける。徐々に太い枝を投入し、最後に薪をくべる。いい火ができた。
鉄串に刺したウィンナーソーセージを近づけると、ジュージューという低い音ともに肉汁がしたたり落ちる。パチッと高い音がして、皮が弾ける。食べごろだ。
「串が熱くなっているから気をつけろよ」
カプッ!
「うわー、最高にうめー」
その姿がさまになっている。焚き火に照らされる愛息子の横顔を見て、塾の夏期講習には行かせずに、サマーキャンプに参加させてやはり正解だったと、竹晴は確信した。
竹晴は都内の私立女子中高一貫校で国語を教えている。だから、中学受験については必ずしも否定的ではない。でも、中学受験がときに子どもを壊したり、子どもの心に深い傷を残したりすることもよく知っている。
合格者の受験番号を貼り出すリアル掲示板の前では、受かった親子と落ちた親子の明暗がはっきり分かれる。自分の受験番号を見つけた親子は、抱き合って跳んで跳ねて喜ぶが、見つからない親子は、いつまでも自分の受験番号が飛ばされているその余白を呆然と眺める。そのコントラストがあまりに残酷だ。
その場で親がパニックになってしまうこともある。そのときの子どもの絶望の表情が忘れられない。12歳にこんな悲痛な顔をさせちゃいけないんじゃないかと、いつも罪の意識にさいなまれていた。
頑張ったら報われると信じていられるのが子ども時代の特権である。なのに、頑張っても報われないことがある現実を、中学受験は12歳に容赦なく突きつける。それがどれほどのリスクをともなうことであるかを十分に理解してから中学受験には挑戦してほしい。そのリスクをなんとかして回避したり、少なくとも和らげたりする覚悟が親にないのなら、潔く挑戦は諦めてほしい。私立中高一貫校の教員として切実に思っていることだ。
中学受験はさせてもいいが、子育ての優先順位を間違えてはいけない。だから、5年生の夏休みには、夏期講習よりもサマーキャンプを優先する。竹晴が妻の葵に提示した条件だった。
ポツリ、ポツリ、ポツリ、ポツリ……
「あ、雨だ!」
さきほどまではあれだけ快晴だったのに、雨が降り出した。
「火が消える前に急いでぜんぶ食べちゃおう!」
雨足は思いのほか速く、あっという間に火は消され、ふたりはテントの中に逃げ込んだ。
ぶら下げたLEDランタンを点灯する。
「おなかはいっぱいになったか?」
「うん」
ソウタはテントの中でごろりと寝転がった。くたくたに疲れているようだ。バイクに振り落とされまいと、3時間半、竹晴の背中にしがみついていたのだから仕方がない。しかしソウタが寝てしまう前にちゃんと話さなければいけないと竹晴は意を決した。
雨はどんどん強くなり、でんでん太鼓を鳴らすように雨粒がテントを叩く。虫の音はもう聞こえない。
「ソウタ、聞いてるか」
「うん」
ソウタが上半身を起こして竹晴に向く。
「もう知っているかもしれないけれど、パパとママは離婚することになった」
「そんなの、嫌だ」
「ごめん、ソウタ……」
「そんなの絶対、嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!」
ギーッと竹晴を睨むように見開いたソウタの目から大粒の涙がこぼれ流れ落ちる。
かけるべき言葉も見つけられず、竹晴はソウタの体を抱き寄せて、強く強く抱きしめた。ソウタは「嫌だよ、嫌だよ」と大声を出して泣き始めた。竹晴もこらえきれなくなった。「許してくれ、ソウタ!」と大声で泣いた。
隣のテントまでは距離があるのに加え、ざあざあ降りの雨音がカムフラージュになってくれるので、父子は何にはばかることもなく、号泣できた。涙が涸れるまで泣き続けた。夜空もいっしょになって大粒の涙を流してくれているようだった。父子は大自然に抱かれ、一体化していた。
「離婚をしても俺はお前の父親だし、困ったときにはいつだって駆けつける。ママも、面会は許してくれると約束してくれている。同じ屋根の下で暮らしていないだけで、同じ空の下に俺たちはいる。俺たちの関係は実は何も変わらない。だからお前は何も心配するな」
それを聞いてすぐ、ソウタは寝袋に潜り込み、深い眠りに落ちた。
この夜を、自分は生涯忘れないだろう。竹晴はそう感じた。ソウタの心にも、この光景、この時間が、少しでも刻印を残し、いつか大人になり、さまざまな人生の岐路に立ったとき、仮に自分がそこにいなくても、ソウタの人生を励ましてくれたらと願う。
キャンプが終わって帰宅したら、竹晴は一人で家を出る。親権は葵に譲った。いろいろ考えて、そのほうがソウタのためだと思えた。面会は許してもらえているので、これからも父親として伝えるべきことは伝えていくつもりだ。
離婚自体には納得している。しかし、愛する息子との別れは、とてつもなく切ない。この世の終わりみたいな気さえする。
それでも明日は来るし、明日は明日の風が吹くのだろう。