予想を超えるマーチャンダイジングの成功
手塚が予言していたマーチャンダイジング収入も、想像以上の展開となった。日本の菓子産業のあり方までも変えてしまったのだ。
業界最大手の森永製菓と明治製菓とはチョコレートで熾烈な販売合戦を展開していた。1961年に明治製菓はチョコレートに色のついた糖衣をまぶした「マーブルチョコレート」を発売し、大ヒットさせていた。初年度は3億1000万円の売上で、翌年からテレビコマーシャルを大展開して34億6000万円の売上となった。テレビコマーシャルの威力を見せつけるものでもあった。
ところが1962年11月、森永製菓も「パレードチョコレート」という糖衣チョコを発売し、「ビックリバッジ」というおまけを付けた。これが当たり、明治製菓は糖衣チョコで9割のシェアを占めていたのに3割になってしまった。
年が明けても明治製菓の劣勢は変わらない。そこで対抗策として目を付けたのが、自社が提供している『鉄腕アトム』だった。子どもたちの間での人気がすごいらしい、アトムをおまけに付けてはどうかとなり、試行錯誤の末、「アトムシール」が誕生した。
明治製菓は番組スポンサーではあるが、だからといって、キャラクターを自由に使えるわけではない。それとこれとは別の話だ。アトムシールの場合、マーブルチョコの定価が30円でその3%がロイヤリティとして虫プロに入ることになった。90銭だが、アトムが始まる前の1962年の売上が34億6000万円なので、その3%としても、1億380万円になる。
アトムシールはマーブルチョコレートのパッケージの中に入れられていたが、それとは別に、蓋にあるチップを送ると、大きなシールがもらえるというキャンペーンが夏に始まった。大きなシールは3種類あった。応募するともれなくもらえるのだが、どれが届くかは分からない。子どもたちはチョコレートをいくつも買ってもらい、何回も応募した。
その結果、明治製菓への応募総数は500万を超えた。それは四国全県の総郵便物とほぼ同数だったという。
大ヒットだった。これと前後してさまざまな業種、メーカーがアトムを使いたいと申し出てきた。虫プロは版権部を作り、これに対応した。1業種につき1社の原則で、文具、ラジオ、マフラー、帽子、子ども傘、シューズ、ノート、ソックス、タイツ、パジャマ、絵の具、シャツと、子ども用のあらゆる日用品にアトムのキャラクターが付くようになった。
無許可の海賊版も出始めたので、正規品であることを証明するため、証紙シールを貼ることにした。商品化の許可を得た企業の団体として「アトム会」も結成される。こうして虫プロはマンガ・アニメの版権ビジネスの基本も作った。
『鉄腕アトム』のビジネスが拡大したころ、萬年社の穴見薫が退職して虫プロに入り、常務取締役に就任した。ビジネスに疎い手塚を支えるためだった。夫が役員になったので、他の社員もやりにくいだろうと、中村和子は退職した(のちに復職)。
虫プロと明治製菓の成功を見て、当然、他社もいきりたつ。とくに、最初に『鉄腕アトム』を提案されながら決断できず明治に取られた森永製菓としては、絶対にアトム以上のアニメを提供したい。
その思いは、広告代理店最大手の電通も同じだった。国産初のテレビアニメの扱いを大阪の萬年社に取られたのは、電通にとって屈辱だった。
日本初のテレビアニメは鉄腕アトムではなかった
週刊少年ジャンプが専属制の必要を感じた日
文/中川右介
写真/shutterstock