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松本零士登場

瑞鷹エンタープライズの高橋茂人は『宇宙戦艦ヤマト』について、小野耕世のインタビューでこう語っている。

〈あの企画そのものは西崎義展氏がズイヨーの役員だったとき、彼が企画していました。キャラクターは何人かに頼んで断られたあと、松本零士氏が描いたもので、それで決定した。はじめは帆船のようなものを描いてきて、船の名は、武蔵そのほかいろいろ出ていましたね。雑談のなかで「戦艦を飛ばしたら?ヤマトなんかはまだ日本人の思い出のなかに大きく残ってるよ」と話したのを覚えています。

結局「宇宙戦艦ヤマト」になった。当時、ズイヨーは、「ハイジ」をフジテレビから放映中で、道義上そのまったく裏の時間帯に「ヤマト」を日本テレビで放映するわけにはいかない。それで西崎は別会社の形をとって、そこでこの企画を進めた。西崎がズイヨーを退社するときに「ヤマト」と「ワンサくん」は彼の所有としたので、ズイヨーとのあいだに問題はないが、松本氏とのあいだに争いがあったようですね。〉

高橋の言うことが正しいかも検証が必要だが、この証言から西崎が瑞鷹エンタープライズを離れた理由のひとつがうかがえる。

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松本零士はこの本の最初に登場している。1943年、5歳の年に手塚治虫と同じ映画館でアニメーション映画『くもとちゅうりっぷ』を見ていた子だ。

松本零士は手塚の10歳下で石森章太郎と生年月日が同じだった。福岡県で生まれ、父は下士官から叩き上げで陸軍少佐にまでなった軍人だ。アニメもマンガも好きな少年となり、高校時代、石森と同じ1954年に「漫画少年」にデビューしていた。手塚治虫が締切に追われて福岡へ来たときは、呼び出されてアシスタントをしたこともある。

1957年に松本零士は上京し、石森や赤塚不二夫同様に、少女マンガを描いていた。当初は「松本あきら」名義で、61年に「松本零士」とし、講談社の「ぼくら」にSF冒険活劇『電光オズマ』を連載する。こうして少年誌にも本格的に描くようになり、68年には集英社の「少年ブック」に『光速エスパー』を連載した。

『鉄腕アトム』のテレビアニメが放映開始となった1963年、松本はマンガ家としてデビューしていたが、ヒット作はなかった。テレビアニメになる作品もなく、知名度は低かった。『宇宙戦艦ヤマト』のおかげで、広く知られるようになる。

1971年から「週刊少年マガジン」に連載した4畳半もの『男おいどん』と、「週刊少年サンデー」に73年から載った「戦場まんがシリーズ」がヒットして、松本のマンガファンの間での知名度は高まった。

『宇宙戦艦ヤマト』に松本零士がいつから加わったかは、本人を含めて関係者の証言が食い違うが、ある程度、骨格ができてからというのは共通する。

『宇宙戦艦ヤマト』の企画が動き出すのは『ワンサくん』が始まった1973年4月前後から虫プロ倒産の11月までの間だ。74年1月からは『アルプスの少女ハイジ』の放映が始まる。『ヤマト』のパイロット・フィルムは74年8月に完成し、10月からよみうりテレビ(日本テレビ系)での放映と決まる。それが『アルプスの少女ハイジ』と同じ時間帯だったので、西崎は瑞鷹エンタープライズを出たというのが、高橋の説明だ。

パイロット・フィルムは、西崎が自分の会社であるオフィス・アカデミーに作らせている。同社はアニメのスタジオではないので、虫プロにいた野崎欣宏が中心となって、虫プロのスタッフを集めていく。富野由悠季や安彦良和も絵コンテを描いた。