「日本で現存する最古のビールブランド」
官営の事業は、どうしても赤字に陥る運命なのか。昭和の国鉄が赤字で首が回らなくなったのと同じように……。
中川がつくった「冷製札幌麦酒」は、やがて東京でも発売される。中川がベルリンでビール醸造を学んだのは、パスツールが開発した低温殺菌法が普及する前である。
つまり中川のビールは、瓶内に酵母が生き残った〝生ビール〞だった。再発酵を防ぐため、夏場はビール瓶と木箱の間に氷を詰めて輸送していたという。これは大変なコストアップ要因となった。
1882年(明治15年)、開拓使が廃止されると、開拓使直営事業は、農商務省に新設された北海道事業管理局の所管となり、直営事業の払い下げ先を探し始めた。
86年11月、この官営ビール事業は民営化される。払い下げを受けたのは、大倉財閥の創始者である大倉喜八郎。「大倉組札幌麦酒醸造所」として新たなスタートを切ったのだった。
しかし翌年、大倉は渋沢栄一、浅野総一郎らに事業を譲渡する。経営をより安定させるのが目的だったとみられる。87年12月に設立された新会社「札幌麦酒会社」の発起人の一人は渋沢であり、大倉自身も経営に参画する。
その前年には、すでに大倉も渋沢も増資したジャパン・ブルワリー(キリンビールの前身)に出資をしていた。札幌麦酒の経営はめまぐるしい展開だったが、それだけ新しい産業としてのビールへの期待値は高かったことを物語る。
新会社設立から8か月後の88年8月には、熱処理(低温殺菌)した「札幌ラガービール」が発売される。この新製品により、夏場に東京へ送るのに、氷を詰める必要がなくなった。大幅なコストダウンが実現したのだ。
現在の「サッポロラガー」の瓶ラベルには「SINCE1876」と、開拓使麦酒醸造所の設立年が刻印されている。そして開拓使麦酒が1877年に発売した「冷製札幌麦酒」をもって、「日本で現存する最古のビールブランド」(サッポロビール広報部)と解釈している。
あえて商品ブランドを比較すると、1888年8月発売の「札幌ラガービール」に対し、ジャパン・ブルワリーの「キリンビール」は同じ88年5月の発売だ。ただし、「キリンビール」の名称は1988年に「キリンラガービール」に変わっている。
文/永井隆 写真/Shutterstock
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