東京で人気になった桜田ビールと浅田ビール

東京では1879年にビール販売業者だった発酵社が「桜田ビール」を発売する。ウイリアム・コープランドの助手だった久保初太郎が醸造技師を務め、スプリングバレー・ブルワリーから分けてもらった酵母が使われた。

1885年には、東京の中野坂上で製粉業を営んでいた浅田甚右衛門が、「浅田ビール」を発売する。この前年に横浜のスプリングバレーが廃業したが、そこの醸造装置など設備を買い取って、浅田はビール事業に乗り出した。醸造技師も、スプリングバレーでコープランドの助手だった技師を雇った。

「桜田ビール」を追いかける形で、「浅田ビール」は売り上げを伸ばしていく。日清戦争勝利の好景気と相まって、この二つのビールは東京で人気を博す。1890年に上野で開催された第三回内国勧業博覧会では、ともに入賞を果たす。

しかし、ライバルとして東京で一世を風靡した二つのビールもまた消えていく。

1907年に「桜田ビール」の発酵社は後述の「大日本麦酒」に買収され、5年後の12年に「浅田ビール」は廃業に追い込まれる。

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サッポロビールの起源、開拓使麦酒製造所のラガービール

渋谷、野口に続き、北海道開拓使が現在のサッポロビールの起源となる「開拓使麦酒醸造所」を発足させたのは1876年(明治9年)9月。醸造を担ったのは中川清兵衛だった。中川は、日本人として初めて、ドイツで本格的なビール醸造を学んだ人物である。

中川は越後国与板(現在の長岡市)の商家の出身。鎖国だった徳川時代に、国禁を犯して渡英したのは、まだ17歳のときだった。同志社大学を建学した新島襄と同じで、命知らずの行動だった。

中川はイギリスで食い詰めてしまい、やがてドイツに渡る。ここで出会ったのが、留学していた青木周蔵(後の外務大臣)。中川の才を認めた青木は、中川をベルリン最大のビール会社、ベルリンビール醸造会社に送り込む。1973年のことだった。

徒弟制度のもと、中川は必死に技能を身につけていく。雪深い新潟出身者の多くが有する、辛抱強さが発揮されたのかもしれない。働き始めて2年2カ月が経過したとき、工場長から認められたのだ。贈られた修業証書には次のようにあった。

「一八七三年三月七日から今日に至るまで旺盛な興味と熱心さをもって、ビール醸造および精麦の研究に精励し、ようやくその全部門にわたり優れた知識を修得し、ヨーロッパにまで来訪した目的を達成した。有能にして勤勉な他国の一青年を教育し得たことは、我々の大きな喜びとするところである(後略)」

ドイツ公使になっていた青木は、開拓長官(三代目)の黒田清隆に中川を推薦する書簡を送る。黒田は北海道開拓事業の一環として、官営ビール工場の建設を構想していた。

中川が帰国したのは1875年8月。翌年に開設する開拓使麦酒醸造所の主任技師に就任する。中川は、深い味わいとホップによる上質な苦みが特徴のドイツ流ラガーを、ベルリンで学んだ。豊かな香りが特徴の英国流エールは常温での発酵が可能で、熟成期間も短くてすんだ。だが、ドイツ流ラガーを造るためには、低温にする必要があった。

多くの醸造試験を経て完成したビールは「冷製札幌麦酒」(発売は1877年)。ラベルには開拓使のシンボル、北極星が大きく描かれた。この星マークは、現在のサッポロビールに、引き続き採用されている。