ずいぶんたくさんの聖なる営みがなされた一つの小さな岩
このドームは、実はモスクではない(8世紀に建てられたアル=アクサ・モスクがすぐ隣にある)。
そうではなく、聖堂なのだ。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の伝統では、このドームの下にある岩は「礎石」であり、世界有数の神聖な場所だと考えられている。
そこでは、神がアダムを創造し、アブラハムが息子のイサクを危うく生贄にしかけ、「契約の箱〔十戒が刻まれた石板が納められた櫃〕」が安置され、ムハンマドが「夜の旅」で天に昇ったとされている(さまざまな説がある)。
一つの小さな岩なのに、ずいぶんたくさんの聖なる営みがなされたものだ!
こんにち、パレスチナ人は「岩のドーム」のイメージを利用して、自分たちとエルサレムとのつながりを示そうとしている。エルサレム旧市街のイスラム地区にあるアラブ人民家のドアの上には、このドームが描かれているのが見られる。
16世紀までに、コンスタンティノポリス(のちのイスタンブール)を首都とする強大なオスマン帝国が、パレスチナを含むアラブ世界の大半を支配するようになった。
スルタンであるスレイマン一世は、エルサレム旧市街にいまも残る城壁を築いた。だが、19世紀後半には、オスマン帝国は急速に衰退しつつあった。
パレスチナはと言えば、開発の遅れた無法地帯であり、辺境のへき地だった。人びとは貧しく、識字率も低く、都市部はほとんどなかった。最大の都市エルサレムでさえ、人口は2万人程度にすぎなかった。
大半の土地は不在地主の所有で、貧しい小作人によって耕されていた。地元の有力なアラブ人家庭出身の少数のエリートが、貧しい大衆を牛耳っていた。中流階級と呼べるような人びとはほとんどいなかった。シオニストの移民が押し寄せはじめる直前の1880年、パレスチナ全体の人口はわずか60万人足らずで、その95パーセントがアラブ人だった。
パレスチナの状況が好転しはじめたのは、改革に熱心だったオスマン帝国当局が、ヨーロッパのライバルに大きく後れをとっていた自国の近代化に本気で取り組んだおかげだった。
1880年代、オスマン帝国はパレスチナの無法地帯を取り締まり、道路や鉄道といったインフラを整備した。これによって農業が発展し、それが今度は、食糧の増産、人口の増加、生活水準の向上につながった。
パレスチナでなされたような近代化の努力は、数十年にわたる衰退を反転させるべく、帝国全土で実行されていた。
パレスチナのアラブ・ナショナリズム
実際には、オスマン帝国による近代化の努力は、その衰退に拍車をかけることになった。
生活水準が向上し、社会のあり方に関するヨーロッパ的な思想が持ち込まれたせいで、オスマン帝国の支配下にあったさまざまな地域で民族主義的な感情が高まり、自治への渇望が強まったからだ。
ギリシャ人、マケドニア人、ブルガール人、アルバニア人は、オスマン帝国による支配の終焉を望んでおり、パレスチナを含むアラブ世界も例外ではなかった。
パレスチナのアラブ人の中には、アラブの政治的統一を目指してますます盛んになっていた汎アラブ・ナショナリズム運動に加わる者もいた。
一方で、より局地的な運動を支持する者もいた。こうしたナショナリズム運動が領土全体で勢いを増すにつれ、すでに「ヨーロッパの病人」と呼ばれていたオスマン帝国は、さらに弱体化しはじめた。
パレスチナのアラブ人は、自らのナショナリスト的思想を発展させると同時に、パレスチナの海岸にやってくるシオニストの移民と接してもいた。
シオニストの野望がどれほど大きいかを理解するにつれ、アラブ人は、自分たちの希望に対する脅威はオスマン帝国の領主だけではないことを悟った。
シオニストおよび、ユダヤ人移民と施設建設を進める彼らの運動に反対することが、パレスチナのアラブ・ナショナリズムの本質的要素となっていった。
パレスチナのアラブ人ナショナリストは、シオニストと同じように、新聞を創刊し、政治的な団体や組織を設立し、自らの大義を推進するために会議を開催した。
要するに、こういうことだ。またしても皮肉なことに―この物語は皮肉に満ちている―パレスチナのアラブ・ナショナリズムの一部は、ユダヤ・ナショナリズム、すなわちシオニズムの帰結として、またそれに対抗するものとして形成されはじめたのである。
文/ダニエル・ソカッチ 翻訳/鬼澤 忍 写真/shutterstock
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