幻となった”インパール演説”の未定稿
以下に掲げるのは、総理の決裁を得る以前の未定稿である。もっとも、安倍総理の目に一度触れてはいる。
ここインパールに立ち、いまや遥かなる往時を偲ぶことは、私にとって、長年、いつかはと、自らに念じてきた課題でした。昭和から平成、令和へと、時代が移るにつれ、思いはむしろ、強くなるばかりでありました。
いま、畏友ナレンドラ・モディ首相のご配慮を得て、実現したことに、感懐、ひとしおなるものを覚えます。
いましがた見た平和資料館は、戦争中の当地で起きたことを静かに訴えて、後世の私どもの、魂を揺すります。完成に力を尽くされた皆さまのご努力に、深甚の敬意を表します。
全滅に次ぐ、全滅。熾烈というも、無惨な戦場でした。弾薬なく、糧食尽きて、クスリの一粒、包帯の一片とてない。雨水に湿ったマッチは、容易に火を起こさなかったでしょう。
あたら、若い命が、火線を仮に生きのびたとしても、マラリヤで、デング熱で、赤痢、果てはペストで没していった。
ここに立つことは、それら将兵や、あるいは彼らを助けようとして自ら斃れた看護婦たちや、無数の人々のかそけき声に、せめて心をしずかにし、耳を澄まそうとすることでなければなりません。
ここから、ミャンマー、雲南省にかけての一帯は、さもなければ平和な地であったに違いないのに、戦争は、一方的に当地の人々を襲い、数知れぬ、悲劇を引き起こしました。
いまさら私がこうべを垂れたとしても、過ぎ去った時、失われた命と財産に、戻って来るものはありません。
だとしても、私はここに、日本国民を代表し、しばし瞑目します。当地にあった、無辜の、無名の、無数の民のため、また、もとより、干戈を交わし合った、連合軍、インド国民軍、日本軍、すべての人々のために、鎮魂と、哀悼の、誠を捧げます。
あれから三四半世紀、日本は、平和を尊び、人の命を重んじて、国内はもとより、遠い、異国の地にあっても、一人、一人の、人間の力を養い、自由と、民主主義を培っては、それを確かなものとする営みに、営々、尽くしてまいりました。
幸い、努力は、日本に対する評価となって、実を結んでいます。このことを、当地に斃れた人々は、せめてもの慰めと、受け取ってくれるでしょうか。そうであってほしいと、私は念じ、これまでの歩みは、この先とも、揺るぎのないことを、お誓い申し上げたいと思うのであります。
鉄兜の、錆びた一片、朽ち果てた、軍刀の欠片。どんな手掛かりが、残っているのでしょう。日本兵のご遺骨は、まだそのあまりにも多くが、かえりみられることなく、当地のあちら、こちらに、散らばったまま、かなわぬ帰国を待っています。
私は、戦後ごく早いうちから、遺骨の収集にお力を貸してくださった、この地域の人々に、衷心から、御礼を申し上げます。このたび、インド政府の寛大なご理解を得て、向後三年、ご遺骨収集に、一層力を傾注していく運びとなりました。心から、嬉しく存じます。関係する方々すべてに、御礼を申し上げます。
鎮魂と、慰霊の旅を、モディ首相は実現させてくださいました。そのことに対して私はモディ首相に、もう一度、感謝を申し上げます。モディ首相、有難うございました。
戦後の総理たちは、果たして従軍看護婦の英雄的献身に感謝の言葉を述べたことがあっただろうか。このスピーチが、最初の一例となればよいと思っていた。
安倍総理は果たしてこの原稿にどんな指摘をし、インパールでどのように語りかけたことだっただろう。もはや、想像してみることしかできない。