昭恵さんの「謝辞」
本書の最後に紹介する安倍昭恵夫人の言葉だ。
令和4年7月12日、安倍家が芝・増上寺で営んだ葬儀で、麻生太郎元総理・友人代表の弔辞を受けて、昭恵さんが話した「謝辞」(喪主挨拶)である。このたび許しを得て、筆者が録音から書き起こしたところをおおやけにしたい。
7月9日、筆者は、安倍氏夫妻が二階、実母の安倍洋子氏がその上、三階に住む渋谷区富ヶ谷の共同住宅に行き、奈良県立医科大学附属病院から帰宅するご遺体と、昭恵夫人を、他の人々に交じって迎えた。
自邸ガレージの天井高との関係で、到着したのは車高の低いメルセデスの寝台車だったが、覚悟のうえ準備して向かったのであろう、黒一色の出で立ちでクルマから現れ、われわれ一人ひとりを見て一礼した昭恵さんの様子は一生忘れられまい。涙の涸れた人の顔というものを、初めて見た気がした。
それからわずかに三日後の葬儀で、昭恵さんが手元に一枚の紙も置かずに話した謝辞を、以下に再現する。
それは冒頭、ほとんど聞き取れないくらいの小さな、吐息のような声で始まった。
昨日も、それから、本日の告別式、岸田総理はじめ、みなさまがた、お忙しい中、またお暑い中、ご参列をいただきまして、ほんとうに、ありがとうございました。
また、いま、麻生総理からは、心温まる弔辞をいただきました。主人は、麻生先生のことをほんとうに憧れていたので、喜んでいることと思います。
あんまりにも突然のことで、わたくしも、まだ夢を見ているような、そんな気がしています。
あの朝は、安倍の母のところで、一緒に朝食をとって、そして八時ごろ「行ってきます」と、元気に家を出て行きました。
一一時半ごろ、事務所から電話がかかってきて、「代議士が撃たれました」。
「えぇー」、と、大きな声を上げてしまいましたが、「まだ詳細がわからないので、洋子夫人には言わないでください」ということで、わたしは目の前にいた母の手前、冷静を装いましたけれども、そのあとテレビですぐ報道がありましたので、急いで支度をして奈良に向かいました。
新幹線に乗って、京都で乗り換えて、駅からすごく渋滞をしていたので、病院に着いたのが五時少し前ぐらいになってました。
院長はじめ、先生方から、ご説明があり、あぁこれはもうむずかしいんだろうなという覚悟はありましたけれども、主人の顔を見ると、……なんだか笑っているような、穏やかな顔で、手を握ると、そして、わたしが耳元で声を掛けると、ほんの少しだけ、手を握り返して、くれたような気がいたしました。
わたしのことをきっと、待っててくれたんだろうなというふうに思い、そしてそれまで何時間も心臓マッサージをしていた先生に、「もう結構です」と、いうふうに言いまして、五時三分に息を引き取ることになりました。
今年わたしたちは結婚をして三五年を迎えました。結婚してすぐに安倍の父が発病をして、そしてその後他界をいたしまして、わたしたちは山口県下関市に住所を移しまして、来る日も来る日も、後援会の方たちの中を回る日々でございました。
後援会の方たちに、ほんとうにお支えをいただき、おかげさまで連続当選をさせていただいてまいりましたけれども、その間、持病の潰瘍性大腸炎を何度も発症して、長期入院したこともあり、政治家としてはもうむずかしいのではないかなあというふうに思ったこともありましたけれども、けっして、主人はやめるということは言いませんでした。
そしてみなさまがたご存知のように、どんどん偉くなっていきました。どんな立場になっても、けっして主人は偉そうな態度をとることもひとに偉そうなことを言うことも、ない人だったのではないかなというふうに思っています。いつもひとに囲まれて、ユーモアをまじえた話をして、ひとに笑ってもらうのが、大好きな主人でした。
たいへんなことも、たくさんありましたけれども、いつもいつもわたしをかばってくれて守ってくれて、ほんとにいい主人でした。
主人と結婚したおかげで、できないような経験をたくさんさせてもらって、わたしはほんとに、感謝をしています。
もちろん、政治家として、まだまだやり残したこともあったと思いますけれども、多くの人に囲まれることが好きだった主人にとりましては、これだけ、世界中の方に惜しまれて、悲しまれて、旅立つことができることを、きっと、主人も最後、喜んでいるのではないかなというふうに思います。
六七歳。ほんとにまだまだ、一〇〇歳の時代、若いと思いますけれども、安倍の父が亡くなったのも同じ六七歳でした。
父が亡くなったあとに主人は追悼文を書いておりまして、その中で、山口県の吉田松陰先生の留魂録を引用しておりました。
吉田松陰は、ご存知のように三〇前で若くして亡くなっていますけれども、「一〇歳には一〇歳の、おのずからの春夏秋冬、季節がある。二〇歳には二〇歳の、三〇歳には三〇歳の、五〇歳には五〇歳の、そして一〇〇歳には一〇〇歳の、それぞれの人生に、おのずからの春夏秋冬、季節がある。安倍晋太郎は総理を目前として亡くなり、志半ばで残念だとひとは思うかもしれないけれども、きっと父の人生は春夏秋冬があったのだろう。いい人生だったに違いない」というようなことを書いていたように記憶しています。
主人の六七年も、きっと、彩り豊かな、ほんとにすばらしい春夏秋冬で、大きな大きな実をつけて、そして冬になったのだろうと、わたしは、思いたいと思います。
そして、その種がたくさん分かれて、春になればいろんなところから芽吹いてくることを、きっと主人は楽しみに、これから見るのではないかというふうに思っています。
安倍の母は、先月、九四歳になりました。ほんとに主人は、母親思いのやさしい息子で、しょっちゅう一緒にお散歩をしたり、昔住んでいた辺りをドライブしたり、母のことを思って、いつもいろいろなことをしていたので、年老いた母を残して、逝ってしまうことは、心残りのひとつなんではないかなと思います。
わたし自身も、あまりにも突然のことで、これからの将来のことを考えると不安でいっぱいですけれども、またみなさまがたにお頼りすることもあると思います。どうぞよろしくお願いを申し上げるところでございます。
主人はいつも、自分の人生があるのは、たくさんの方に支えていただいているおかげだというふうに言っておりました。主人に代わりまして、改めて、お世話になりましたすべてのみなさまがたに感謝を申し上げまして、ご挨拶とさせていただきたいと思います。ほんとにありがとうございました。
話し手と聴き手に強い情念の結合ができるほど、すばらしいスピーチはない。上に掲げた昭恵夫人の謝辞をもって締めくくれることを、本書に与えられた僥倖と考えたい。
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安倍晋三氏は、もはや帰らぬ人だ。筆者がまずささげるべきは感謝の言葉であろう。その御霊が永遠の安らぎを得たことを、せめてもの喜びとしたい。もし誰かに転生して此岸に戻ってきてくれるなら、わたし(とわたしの妻)の生物学的生命が残っている間にしていただけると嬉しい。
文/谷口智彦 写真/shutterstock
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