一世一代の米議会演説
まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。
「落ち込んだ時、困った時、…目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」。
二〇一一年三月一一日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。
そして、そのときでした。米軍は、未曾有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子供たちに、支援の手を差し伸べてくれました。私たちには、トモダチがいました。被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれた。
──希望、です。
米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。
米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか。
希望の同盟──。一緒でなら、きっとできます。
ありがとうございました。
と、もちろん全文英語で総理が読み終えると、会議場は割れんばかりの、拍手。上院議長としての立場で発言者である総理の真後ろに下院議長と並んで座っていたバイデン副大統領(当時)も、同じように立ち上がって手を叩いていた。
2015年4月29日、米国連邦議会上下両院合同会議でのスピーチである。
米国連邦議会で上下両院議員が一堂に会し、誰かの演説を聞く機会は、大統領が議会に一年に一度だけ年初に現れ「年次教書演説」を読むときくらいなものだ。その際には、フロア面積が広い下院の本会議場が使われる。
来訪した外国要人を、これと同じ処遇で──下院本会議場で上下両院議員が迎えてスピーチさせる慣習は、さほど昔にさかのぼらない。それ以前は、下院本会議場で下院議員が迎え、聞くのを通例とした。
昭和32(1957)年に訪米した岸信介総理(当時)は、あまり知られていなかったが、下院を舞台に堂々たる演説をしていた。
そしてその後、ついぞなかった。1961年、当時の池田勇人総理が下院で述べたものは短かすぎ、「挨拶」として今に伝わるため省くとして、安倍総理は、米連邦議会演説としてなら祖父、岸に次いで二番目に当たるスピーチを、上下両院合同会議に対して、と、定義を狭くした場合なら史上初となる演説を、読み上げることとなった。