堂々と胸を張って言うことでもないが、私の自炊レベルは底辺で(食にまつわる仕事をしているにもかかわらず)、パンケーキは最初の数枚は丸焦げにしないとコツが掴めないし、カルボナーラはいつまでたっても炒り卵だ。茹でるだけのそうめんですら水切りで手を滑らせ麺をシンクにぶちまけたりするのだからもう、なんて自分はポンコツなんだと度々自己嫌悪に陥ってはシンクを前に深いため息をついてきた。
だけど、同時にこう思うのだ。「こまったさんより、ましである」。こまったさんは、『こまったさんのスパゲティ』や『こまったさんのハンバーグ』などシリーズもので出版されている児童書の主人公。毎度、料理に挑戦してはとんでもない失敗をしでかし、「こまったこまった」とおきまりのようにぼやく。スパゲティに至っては麺を茹でるための水がなかなか鍋にたまらないし、ようやく水が張れたかと思えば今度は鍋の中で麺を紛失する(どういうこと)。実はこの本、『わかったさんのプリン』や『わかったさんのホットケーキ』など、なんでも器用にこなす完璧ウーマンのわかったさんが華麗にお菓子を作りあげるシリーズもあり、子供の頃の私は完全にわかったさん派閥で、わかったさんに憧れていた。正直「こまったさん、かっこわる。こまったさんを推す心理、理解できん」と思っていた。だけど今ならわかるのだ。完璧じゃなくても、失敗ばっかりでも、それでも頑張るあなたの姿が他の誰かを励ますこともあるのだと。
事実私も料理の失敗談をSNSに綴ってみると、「笑いました」とか「共感します」なんてメッセージがよく届き、悲劇も喜劇の色を帯びていくらかむしろこちらの方こそ心が救われたりする。麺をシンクにぶちまけるというのは誰でもやることらしいし、結構みんな洗って食べたりするらしい。そんな話を聞くだけで私はちょっとだけ強くなって、何度うちのめされてもまた台所に向かって奮い立つのだった。
赤裸々な失敗談というのは、眩しい成功談にはできない形で、人を支え励ます力があるのかもしれない。『鬱ごはん』という漫画の読後にもその感覚に近いものがある。グルメ漫画の中でもかなり異質な作品で、孤独な青年・鬱野たけしが、鬱々とした気持ちで日々出会う日常の食を淡々と描写していく。牛丼屋に入り定食のおみそ汁を覗きこんで「みそ汁に蛍光灯が映り込む コンビニやスーパーや病院と同じ照明だ」などと呟いてはすぐに鬱っぽくなる。決して幸福とは言いがたい食の風景。喜怒哀楽でいえば、喜や楽の食のストーリーテリングが溢れる世界において、『鬱ごはん』が描く悲哀や失敗に満ちた食シーンは、圧倒的リアリティを持つ。でも、だからこそ。鬱野の食生活は、私たちの生きる現実、粛々と飲み込んできた切ない食や、こんなはずではなかった食の記憶に、そっと寄り添ってくれるのだ。