二度目の記者会見

2月24日17時、ゼレンスキーが100人超の記者を集めて記者会見を開いた。この規模の記者会見は、私がさえない質問をした2022年4月以来初めてのことだ。今回は地下鉄の駅ではなく、ホテルの地下階のコンファレンスルームが会場だった。

ゼレンスキーは10か月前と同じように、3時間近く、各国のメディアの質問に応え、支援を訴えた。日本メディアは今回、NHKが早々と当てられ、G7の議長国である日本への期待について質問している。

なぜゼレンスキー政権に汚職問題含めた批判的な質問が出ないのか。ウクライナ在住の日本人記者も「いいロシア兵もいた」という記事は書けなかった世論の反応の危うさ_2

私が特に関心を持ったのは、次の3つの質問への答えだった。

――この1年で一番恐ろしかったのは?
「(少し考えてから)……ブチャだ……あそこで目にしたもの……占領から解放した直後のことだ……本当にひどい有様だった」

――NATOが再三警告していたにもかかわらず、あなたは全面侵攻の可能性を否定し、市民に準備を促すことを怠ったのではないか。
「私は2月24日、どこにも逃げず、ここにとどまった。我々は国を失わなかった。それはウクライナの人々、そしてウクライナ軍のおかげであり、それに私も少しは貢献したはずだ。私は英雄ではないが、何かを成し遂げている。キーウ州を占領から解放した。私は国民を裏切る(ドンバス地方を巡ってポロシェンコ前政権が15年に結んだ)ミンスク合意のような停戦合意には署名していない。我々は勝つ。前大統領なら我々は勝てない……」

そして、会見の最後の質問。

――この1年はあなたの家族にどんな影響を与えましたか。家族との関係は変わりましたか。
「私は妻を愛している、子供たちは私にとって一番大切な人たちだ。いまは頻繁に会えなくなってしまったが……両親にも会う機会がない……国のためにも家族のためにもすべきことをしている妻を誇りに思う……この質問が一番答えるのがつらい……私にとって一番大切なことは妻と子をがっかりさせないことだ。子供たちには私のことを誇りに思ってほしい……」

私が22年4月に聞きそびれた、首都に留まるという個人的な決断について、回答を得たように感じた。明確な答えではないが、やはり首都侵攻を予期しておらず、家族への思いを抱えながら「逃げない」と覚悟を決めたことがうかがえた。