社会が生み出す「ぼっち」へのネガティブな先入観
ぼっちには、前項で述べた「ひとりでいたくないにもかかわらず、不本意ながらひとりでいることを強いられている」ということ以外にも、ニュアンスの違った意味があります。そこに、ぼっちという言葉が嫌われる、また別の理由があるのではないかと思うことがあります。
ぼっちとは、「ひとりぼっち」を略した言葉です。
漢字で書くと「独法師」で、「宗派に属さない単独のお坊さん」のこと。由来となった言葉それ自体には、もともとはネガティブな意味はなかったと思いますが、時代を経て、組織・集団に属せないためにひとりである状態を選択せざるを得ないという、孤立させられているかのような暗さを伴うイメージがついたと考えられます。
いわば、好き好んでぼっちを選んでいるのではなく、やむを得ずぼっちでいる状態といえるでしょうか。
自分自身が「ぼっちの状態を望んでいない」から、同じようにひとりでいる人に対して、あたかも「誰にも受け入れてもらえない社会性のない人」として、無意識的に同情するような視線を向けてしまうのかもしれません。
「ぼっちはイタイ」「ぼっちはみじめ」という言葉には、ひとりでいる人はなにか問題がある人で、排除された人であり、自分はそうは思われたくないという強い拒絶の意志が組み込まれているのではないでしょうか。
ぼっちに限らず、「人付き合いが下手」もしくは「人嫌い」といった言葉は、どこか本人に落ち度があるような、ネガティブな言い回しとして使われてしまっています。
そして、一度でもそのようにみなされると、まわりの人たちはその人をあたかも触れてはならないケガレのように扱い、積極的に集団や共同体から排除するか、社会的ヒエラルキーの下層に位置づけようとします。それゆえに、ぼっちやさみしい人に対して、誰しもが受け入れがたいニュアンスを感じてしまうのでしょう。
独身でいる人に対して、つい最近まで、社会不適合者かのように捉える風潮が実際にありました。あくまでも結婚するのが当然であり、ひとりでいる人は、「結婚したくない人」というよりも、「結婚ができない人」「誰かと生活ができない人」というレッテルを貼られていたような状況です。
もっと遡れば、「独り者のままでは出世できない」といわれていた時代もあったほどです。
しかし一説によると、日本では2024年に独身者が人口の5割となり、既婚者は3割に過ぎなくなるともいわれています。もはや、高齢者よりも独身者が多い〝ソロ国家″になると想定されているのです。その理由には、自分が結婚したいと思う相手が見つからないことに加え、離婚の増加も挙げられますが、それだけでなく、「選択的な独身」も多く含まれるはずです。
自分はひとりでいるのが好きで、自らの意志で、ひとりでいることを選んでいても、社会的に、ぼっちと規定されるのは、また別の話なのです。これはつまり、ぼっちに対するネガティブな先入観が社会のなかに存在するということであり、そこには、一筋縄ではいかない根深さが含まれているということでもあるのです。