婚姻関係消滅後の好待遇を維持

ただ秀忠の政治的地位は、他の親類衆や旧戦国大名とは区別されていた。

同十九年十一月に近衛権少将を飛び越して参議・右近衛権中将に、文禄元年(一五九二)九月に従三位・権中納言に昇進している。その時点で中納言以上の官職にあったのは、羽柴家当主になっていた関白秀次、大納言の家康と、同じ中納言の羽柴秀保(秀長養嗣子、一五七九〜九五)・同秀俊(秀吉養子、のち小早川秀秋、一五八二〜一六〇二)だけであった。

これはすなわち、秀忠の政治的地位は、羽柴家一門衆と同等におかれていたことを示している。父家康は、秀吉の義弟ということで、一門衆と同等に位置付けられていた。秀忠もまた養女婿という立場をもとに、同様の扱いを受けていたことがわかる。

もっとも秀忠と婚約した小姫は、天正十九年七月九日に、わずか七歳で死去していた。

同時期に秀吉嫡男の鶴松も死去し、秀吉正妻の木下寧々(高台院、?〜一六二四)も病気に罹っているので、何らかの流行感染症によった可能性が高い(渡辺江美子「甘棠院殿桂林少夫人」柴裕之編『織田氏一門』所収)。

これにより秀吉と家康の姻戚関係は、完全に断絶した。秀吉義弟であった家康は、正妻朝日を失っており、秀吉養女婿であった秀忠も、婚約者小姫を失ったのである。

にもかかわらず、秀忠はその後も、参議・中将、中納言へと昇進し、むしろ羽柴家一門衆と完全に同等に位置付けられている。このことは秀吉が、家康・秀忠父子を重んじ、具体的な姻戚関係が消滅したあとにおいても、引き続いてその待遇を維持したことを示している。

“豊臣家康”とは一体誰のことだ!? 死期を前に、徳川秀忠と江を結婚、千姫と羽柴(豊臣)秀頼を婚約させた秀吉の切なる願いとは_2

実は豊臣家康だった

そして家康自身も、秀忠と同じく、羽柴苗字・豊臣姓を与えられた。

正確な時期は判明していないが、文禄三年(一五九四)九月二十一日付けで秀吉から家康に出された所領充行目録の宛名に、「羽柴江戸大納言」と記されていて、家康がそれ以前に羽柴苗字を与えられたことがわかる(堀新「豊臣秀吉と「豊臣」家康」など)。羽柴苗字を称しているから、それに対応して豊臣姓を称したことは確実である。

家康がかつて、永禄九年(一五六六)に徳川苗字への改称にともなって、本姓を源姓から藤原姓に改姓していたことについては、第二章で触れた。ところが秀吉に従属したあとの天正十五年十一月の遠江見付宣光寺の鐘銘(静8一九四一)、同十六年の「聚楽第行幸記」(『群書類従第三輯』)、同十九年十一月の寺社への寄進状(家康中九二ほか)で、源姓を称している。これにより家康が、秀吉への従属以降、源姓に戻していたことがわかる。

そのうえで羽柴苗字と豊臣姓を与えられたのであった。当時、公家成大名はすべて羽柴苗字・豊臣姓を称していたので、家康も例外ではなかったといえる。

ただし羽柴苗字・豊臣姓を与えられた時期は判明していない。

天正十六年四月の聚楽第行幸以降のこととみなされるが、その後において、家康は「駿河大納言」「武蔵(江戸)大納言」と称されるだけで、苗字を記された史料がみられないからである。

羽柴苗字が確認される文禄三年まで、六年もの空白がある。今後その間における関係史料の出現に期待するしかない。

なお旧戦国大名においては、政権内で羽柴苗字を使用する一方で、領国内では本苗字を使用していた事例があり、それを使い分けていた可能性が指摘されている(平野明夫「徳川家康はいかにして秀吉に臣従したのか」)。

そうした使い分けについては、上杉・最上・長宗我部・竜造寺各家で確認され、里見・宇都宮各家もその可能性がある(拙著『羽柴を名乗った人々』)。そうすると家康についても、同様であった可能性は高い。ただし秀忠については、羽柴苗字の使用しか確認されていない。秀忠はやはり、羽柴家一門衆に近い立場にあったということであろうか。