秀吉妹婿の立場をもとに最有力の大名として位置した

このように家康は、羽柴政権において、秀吉妹婿の立場をもとに、諸大名筆頭の政治的地位にあり、かつ最大の領国規模を有し、最有力の大名として位置した。

この立場をもとに家康は、政権運営においても重要な役割を果たした。家康は秀吉の死後に、政権の政務運営にあたる「五大老」に列し、その筆頭に位置するが、そうした制度が成立する以前、政権に参加した時から、政務に関与したことが明らかになっている(跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』)。

家康は秀吉に出仕した際に、早速に秀吉から「関東・奥羽惣無事」の取り纏めを命じられた。秀吉はその件について、家康に「諸事を相任せ」「無事に仕るべき」ことを命じたのである(竹井英文『織豊政権と東国社会』・拙著『小田原合戦と北条氏』など)。「関東・奥羽惣無事」とは、両地域における大名・国衆の抗争を停止させ、政権に従属させることであった。

これより以前、まだ織田政権の段階であった天正十一年十月に、家康は、織田家当主信雄の「指南」の立場にあった秀吉から、「関東惣無事」の実現を命じられていた。

織田信長の死去直前、北条家とそれに敵対していた佐竹方勢力は、ともに織田家に従属したことで、両勢力間では停戦が実現していた。これを織田政権は「関東惣無事」と表現した。

秀吉は、織田政権の内乱(第一段階)を克服したことをうけて、かつての織田政権の政治秩序を再生させるべく、両勢力と親密な政治関係を形成していた家康に、その実現を命じたものになる。ただしこれは、直後に内乱(第二段階)に展開していくため、事実上、沙汰止みになっていた。

一度は争ったのに、家康はなぜ秀吉に従属したのか…チート級の好待遇で「敵」から「政務の相談役」になった狸の腹の内とは_3

朝鮮出兵においては、秀吉の政策を直接に変更させた

秀吉は家康の従属をうけて、あらためてその執行を命じるのであったが、この時にはさらに、奥羽両国についても対象に含めた。家康は秀吉から、その東国政策の重要部分を委ねられたのである。

天正十六年六月に、北条家は秀吉に従属を表明するが、それは家康はたらきかけによるものであった。それより以前の同年三月には、奥羽伊達家と出羽最上家の和解をはたらきかけている。家康は独自の裁量によって、関東・奥羽の大名・国衆の政権への従属のはたらきかけをおこなっていた。

同十八年の小田原合戦により、関東・奥羽の大名・国衆は、すべて秀吉に従属した。その直後に奥羽で叛乱が生じるが、家康はその鎮圧を担った。

しかもその際の同十九年六月、蒲生氏郷(「会津少将」)と伊達政宗(「伊達侍従」、一五六七〜一六三六)の領国画定について、鎮圧軍の総大将の羽柴秀次と相談のうえで、「然るべき様に申し付け」ることを命じられてもいる。家康はそうした東国大名の領国画定においても、実質的に差配していたのである。

朝鮮出兵においては、秀吉の政策を直接に変更させている。

文禄元年(一五九二)六月、肥前名護屋城(唐津市)に在城していた秀吉が、朝鮮に渡海することについて、前田利家とともに秀吉に進言して、出発を中止させ、事実上の中止に追い込んでいる。

進言は家康の主導によるもので、その際に両者は秀吉に起請文を提出して進言していた。こうした役割は家康に限ることではなく、織田信雄・前田利家・毛利輝元らの有力大名には共通してみられていた。それら有力大名は、秀吉から事実上、政務への参加を認められていて、秀吉に意見し、時にその政策を変更させていた、とみられている。