もたされた2つの手榴弾

もうひとつ、思い出したのは、日本兵の遺骨とともに見つかる装備品は、沖縄本島南部へいくほど少なくなるということでした。

日本軍がアメリカ軍とかろうじて互角に渡り合っていた那覇までの戦線では、日本兵の遺骨といっしょに、軍靴を履いていたことを示す鋲(びょう)やハトメ、腰からは帯革のバックルに銃剣や実弾、上半身からは軍服ボタン、そして小銃と鉄帽が見つかります。これは、遺骨が完全武装兵だったことを示します。

しかし、アメリカ軍に追いつめられた末にたどりついた糸満市南端の喜屋武(きゃん)岬や摩文仁では、日本兵の遺骨とともに出てくるのは、肌着である防暑襦袢(ぼうしょじゅばん)のボタンと手榴弾だけの場合が大半です。これは鉄帽も軍服の上着も脱ぎ捨て、武器も喪失した敗残兵の姿です。

おどろくことに、そんな姿になっても手榴弾だけは最後まで身につけていたという事実です。

「1つはアメリカ兵を殺すため、もう1つは…」10代の学徒隊にも渡された“2つの手榴弾”の使い道とは? 上半身のない遺骨が教える、沖縄戦における“自殺の強制”_3
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沖縄戦を生きのびた学徒隊や日本兵の方々にその理由をたずねました。するとみんな異口同音に、「最後はそれで楽に死ねるからだ」と答えてくれました。手榴弾を、敵を攻撃するための武器としてではなく、自殺の道具として大事にしていたというのです。

かれらは、水も食糧も弾薬も補充要員もない状態で戦わされたあげくに、勝てないとわかってからも、降伏することすら許されませんでした。代わりに手榴弾を与えられ、最後は自分で自分の始末をしろといわれたのです。

日本軍は、労働力として県内の男性を「防衛隊(ぼうえいたい)」員として召集したほか、沖縄戦では、「鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)」「看護学徒隊」「青年義勇隊」などと称して10代半ばの生徒を強制的に動員しました。そして、手榴弾を2つ渡し、つぎのように命令していました。

「1つはアメリカ兵を殺すために使え、もう1つは自分が捕虜になる前に自決するために使え」

天皇のために死ぬことは名誉であるという教育を徹底して受けてきた生徒たちは、捕虜になる前に自殺しろという軍の命令に疑問をはさむことなく、それを忠実に実行しました。手榴弾は、学徒兵の、女子学生の、兵隊の、住民の、軍隊によって強制された自殺を象徴する武器なのです。