済州島のアイデンティティ、「サムチュン」とは?
さて、このチュニおばさんは、ドラマの中では「チュニ・サムチュン」と呼ばれていた。この「サムチュン」という言葉が、ドラマの中では最も重要な済州島方言である。重要だから第1話と第2話の両方で、画面の脇に韓国語の字幕解説が出ていた。
「サムチュン(サムチョン):男女の区別なく年配者に対する、親しみをこめた呼称」
つまり女性なら○○おばさん、男性なら○○おじさんといったニュアンスだ。
わざわざ字幕解説が入っていたのは、標準韓国語で「サムチョン」は、父親の独身の兄弟や母親の兄弟、つまり「男性親族」を指す言葉だからだ。漢字で書けば「三寸」(参考までに、いとこは「四寸〈サチョン〉」)。ところが済州島では血縁関係も性別も関係なく、目上の人に対しては親しみをこめてみんな「サムチュン」と呼ぶのだという。
韓国は長い儒教的な伝統があり、親族名称における男女の区別は厳格である。親族以外の目上の人に対しても、男性なら「アジョシ」、女性なら「アジュンマ」と区別される。これは日本の「おじさん」と「おばさん」と似たようなニュアンスだ。実際の血縁関係がなくても親しみをこめて親族名称が使われることもあるが、その場合でも性別は超えない。ところが、済州島の「サムチュン」は、男女の区別なく使用される。
これは一般の韓国人にとっても意外な使い方だし、性別にがんじがらめな言語習慣の中では、ものすごく新鮮な響きでもある。ドラマ『私たちのブルース』は、この「サムチュン」という言葉に済州島のアイデンティティを求めているようだ。血縁も性別も関係なく、サムチュンを敬い、やがて自分も敬われるサムチュンになる。ドラマはこの言葉を通して、共同体の死生観を再構築している。
もちろん韓国人全員が解説字幕を必要としたわけではない。すでに済州島のサムチュンの意味を知っている人も多いし、この言葉を聞いて『順伊サムチョン』という有名な小説を思い出した人もいる。ドラマの放映が始まった頃、オンライン上にはその小説やそこに登場する4・3事件(米軍政下の済州島で起きた民衆蜂起。徹底した武力鎮圧により島民に多くの犠牲者が出た)に関する書き込みがあり、「ああ、やはり」と思った。
この小説は日本でも『順伊おばさん』というタイトルで翻訳書が出ており、オールド韓国文学ファンの中には読んだ人も多いだろう。訳者は『火山島』などの著作で知られる金石範。97歳の今も、現役作家として済州島についての物語を書き続けている。
『順伊サムチョン』は韓国で1978年に単行本になった直後、出版停止になったことがあるという。斎藤真理子著『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス、2022年)によれば、当時はタブーとなっていた4・3事件にふれたことで、著者である玄基榮はKCIA(中央情報部)に引っ張られて拷問もされたという。
ドラマの本筋ではないのでここで止めておくが、「済州島を舞台にしたドラマ」といったときに、韓国人の中にはこうした現代史の事件を真っ先に想起する人もいる。そのことは日本でドラマを見る人たちも、知っておいたほうがいいと思っている。
ちなみにこの事件をテーマにしたドキュメンタリー映画の傑作が日本にある。2022年に公開された『スープとイデオロギー』は、ヤン・ヨンヒ監督自身と済州島出身の母親が、最晩年に明かされた家族の秘密をたどる旅である。金石範や前著でとりあげた金時鐘といった元老作家をはじめ、済州島をルーツにもつ「在日」の人々は日本の私たちの身近にもいて、ともすれば韓国とはまた違った角度から島の歴史や日本との関わりを紹介してくれている。
『私たちのブルース』にもさまざまな理由で家族を失った人々が登場する。済州島の暮らしがどれほど厳しかったか、それを表現するタッチは、驚くほど粗い。そのザラザラとした質感は意図的なものだろう。その一方で、空も海もブルーの色は明るい。済州島ブルーが広がっている。
文/伊東順子
写真/aflo shutterstock