「嫌だ!絶対に唄いたくない」
明菜のデビューから少し時間が経過した5月半ば、当時研音で明菜のマネージャーを務めていた角津徳五郎(つのづとくごろう)は、いつもより早く目覚め、1時間ほど早く家を出た。明菜の次のシングルのこともあり、島田に会っておこうとワーナーに立ち寄ったのだ。島田はまだ出社しておらず、デスクの上には極太のマジックで「少女A」と書かれた紙が置いてあった。その下には特徴的な文字で歌詞が綴られ、「売野雅勇」と書かれていた。
「明菜の曲だとピンッと来ました。島田の出社を待って尋ねると、作曲家の芹澤さんが歌入れをしたデモテープがあるという。聴かせて貰うと、これが凄く良かった。それで、『イケるよ、これ。すぐにレコーディングしよう』と提案したのです」
島田にとっても「少女A」はヒットを確信する自信作だった。そして「少女A」はセカンドシングルに採用されることが決まる。だが、レコーディングの矢先、“事件”が起こった。
「嫌だ!絶対に唄いたくない!」
明菜本人が、激しく泣き叫んでこの歌を拒んだのだ。
その叫び声は、彼女が表現者として生まれ変わる産声のようでもあった。
「少女A」は私!
中森明菜のセカンドシングル「少女A」は、1982年7月に発売されると評判を呼び、彼女にとって初めてのヒット曲となった。
しかし、担当ディレクターだったワーナーの島田雄三は、発売から1カ月近く、明菜とはまともに口をきいていなかった。彼女が不満を募らせていたことは明らかだった。
島田にとっては薄氷を踏むような思いで過ごした日々だった。
「明菜に初めて『少女A』のデモテープを聴かせたら、みるみる彼女の表情が曇り、『嫌だ! 絶対に唄いたくない!』と泣きじゃくりました。『少女A』の主人公である不良少女は、自分のことを調べ上げて歌にしたものと思い込んでしまったんです。
のちに、中学時代の彼女が、仲間と一緒に暴走族の日の丸の旗を持っている写真が雑誌に持ち込まれたと聞きましたが、当時の私がそんな話を知るはずもない。『少女Aは明菜じゃない』と必死に説得を試みましたが、明菜は頑として譲らなかった」
痺れを切らせた島田が「バカ野郎、やるって言ったらやるんだよ」と怒鳴ると、彼女は「嫌だ」と喚(わめ)き散らした。最後は島田の、「もし、これを出して売れないっていうなら、俺が責任取る」との懸命の訴えで、何とか、翌週のレコーディングの約束だけは取り付けたが、成功するか否かは、一か八かの賭けだった。