何をすれば「安心」できるかを決めるのは日本人
これは、現在の日本にも当てはまる。ただし、「95%の信頼性」はあくまで主観的なもので、これを測定する客観的な基準は存在しない。言い換えれば、「95%の信頼性」があるかどうかを判断するのは、拡大抑止の受益国である国民自身の主観的な認識によるのである。そのため、日本が「拡大抑止の信頼性が十分にあると安心できる」ために米国に何をしてほしいかは、日本人自身が議論して決めていかねばならないということでもある。
例えば、NATOで行っているような「核シェアリング」が日本でも必要であるという議論がある。核シェアリングの本質的な目的は、相手国を「抑止」することでは必ずしもない。「核シェアリング」は、核兵器の運用に一定程度関わることで、同盟国を「安心」させることを主眼とするものであり、抑止力はその「安心」を通じて強化される。ところが「安心」とは主観的なものであり、国民の人ひとりが考えた上で、「安心できるか、できないか」が決まってくるものである。
「核シェアリングがなければ安心できない」という人がいれば、「核シェアリングがなくても安心できる」という人もいるだろう。別の言い方をすれば、何をすれば国民が「安心」できるかについて単一の回答は存在しないということでもある。
必要なのは、1人ひとりが、何をすれば「安心」できるか、正確な情報に基づいて、自分で考え、議論を深め、本当に必要なことについて納得することである。その納得こそが、抑止力を本当の意味で支える。必要なのは、核兵器の脅威に対し、何があれば自分が「安心」できるのか、1人ひとりが考え抜いて答えを導き出していくことである。