「創作する人間の宿命について」 恩田陸×松浦寿輝『鈍色幻視行』『夜果つるところ』刊行記念対談_5
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小説を脚色するのは優れた創造的行為

松浦 『鈍色幻視行』は創作に魅せられた人々の話です。この船には、監督、俳優、プロデューサーと主に映画を作る人たちが集まっている。これは、小説を映像化する、つまり別のメディアに置き換えるという行為を主題とした物語でもあるわけですね。恩田さんの小説はいくつも映像化されているでしょう。僕は『蜜蜂と遠雷』がものすごく好きなんです。ここまで物語から物語が生まれるという話をずっとしてきたわけで、たとえば恩田さんの『禁じられた楽園』の場合、背後に江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』があるんだなということがすぐ想像されて、その連想が物語の興趣にさらなる膨らみを与えることにもなる。ところが『蜜蜂と遠雷』には、そういった先行作品はまったく浮かびませんね。ピアノのコンクールの経緯をずうっと語っていくだけで、こんなに豊かな分厚い長篇小説が成立するなんて、誰も思ってもみなかったでしょう。未曾有の趣向です。第1次予選、第2次予選……と進行して、落ちる人と残る人が振り分けられていく。その経過を淡々とたどっていくだけのことなのに、なぜこんなに涙が出てくるんだろうと不思議でした。『蜜蜂と遠雷』も映画化されましたね。僕は実はその映画は未見なんですが、とてもいい作品らしいですね。
恩田 ありがとうございます。石川慶監督の映画として完成されていて、よかったです。
松浦 僕の『花腐し』も最近、荒井晴彦さんの脚本・監督で映画化されて、公開は今年の初冬になるらしいけれど、試写を見せてもらいました。綾野剛と柄本佑が渾身の演技を見せていて、なかなかの力作です。まあ僕の小説の映画化というより、荒井さんが小説からインスパイアされて彼自身の世界を作ったという感じなんだけど、どうぞお好きにやってくださいと最初から言っていたので、それは全然気にならなかった。原作をどう改変しようと、映画としていいものに仕上がっていればそれがいちばんでしょう。
恩田 同感です。先ほどの『レベッカ』もそうですが、小説と映画は作品として異なるもの。だから、原作から脚色して映画用のホンにするのは、本当はクリエイティブな作業のはずなのに、日本ではなかなか認められないのが引っかかっています。よくいわれることですが、日本アカデミー賞には脚色賞がありません。脚色というものすごく創造的な行為を、ただの映像化だと考え違いをしているのではないかと残念に思うときがあります。
松浦 その話で思い出すんだけど、恩田さんはジョン・ル・カレはきっとお好きでしょう?
恩田 好きです。
松浦 ル・カレの『ロシア・ハウス』がショーン・コネリーとミシェル・ファイファー主演で映画化されたとき、僕が感心したのは脚本なんです。原作は例によってかなり大部なもので、ストーリーラインも錯綜しており、かなりの量のサブ・プロットが詰めこまれている。そのまま忠実に映像に置き換えていくというのではとうてい映画になりようがない。そこで脚本家が何をやったかというと、複雑に絡み合ったプロットの糸をいったんぜんぶ解いてしまい、省略できる箇所は大胆に省略し、しかしそのままでは繋がらなくなってしまうから、思いがけない補助線を引いて流れを再構成し、二時間で完結する緊密なドラマに仕立て直してみせた。ル・カレの原作の味わいと魅力をすべて残したうえでね。その脚本を書いたのはトム・ストッパード。ずば抜けた才能のある脚本家はこういうことができるんだと唸りました。
恩田 私は観ていないのですが、さすがストッパード。『恋に落ちたシェイクスピア』もそうですね。
松浦 その作品で彼はアカデミー脚本賞を受賞しています。
恩田 映画界も含めてですが、ものを作る人にとても興味があるんです。映画の場合はプロデュースや編集、照明、音響、衣装デザインとか、たくさんの創作活動が行われていますよね。『蜜蜂と遠雷』だと、石川監督は自分で脚本を書くし、編集もされるので、非常にしっかりと石川監督の映画になっています。映画と小説はまったく違うメディアだから、別物だと思って取り組み、完成に持っていってくれればいいんですが、なかなかそうはならないのが不思議です。
松浦 ピアノのコンクールだけの長篇小説というと、ある意味で単調さが全体を支配するということになっても不思議ではないでしょう。ところが『蜜蜂と遠雷』のすごさというのは、退屈するところなんか一つもないということなんです。第1次予選から第2次、第3次、そして本選まで、淡々と進行していく過程に、小説の物語ならではの手に汗握るようなサスペンスが漲っている。ただし、あれをそのままぜんぶ映画にしてしまった場合、観客の立場からするとややかったるい印象になってしまったことでしょう。石川慶監督の映画では予選を第2次までに縮めているんだそうで、それはきわめて理のある解だったと思います。
恩田 あれは、どちらにしても映画で全部できるわけはないから、前後編にはせずに二時間で収めてくださいと監督にお願いしました。あの頃ちょうど、日本映画で前後編ものが流行っていたので。
松浦 二時間の映画であの沢山のピアノ音楽をすべて聴かせられるわけでもありませんしね。その点、読む時間を自在に引き延ばせる小説だと、いちいちの箇所でページをめくるのを中断して曲を聴き、音楽を堪能してからまた物語に戻ることができる。読むのと音楽を聴くのと、両方楽しめる小説です。結局、僕を含めて『蜜蜂と遠雷』が多くの人々の心をうったのは、すべての根底に恩田さんの深い音楽愛があったからだと思うんです。
恩田 音楽愛、あります。
松浦 随時立ち止まって、そこに登場するいちいちの曲を聴いていると、いくらでも時間が経ってしまう。そういう読み方ができる小説なんですよね。それから、第3次予選に進めないで落ちてしまった青年の存在がまた素晴らしくて。天才少年少女の3人だけでは単調になってしまいかねないところを、あの青年がいることで物語にしみじみとした奥行きが生まれている。
恩田 才能とは一体なんだろうと、いつもすごく考えています。才能とひと言で言ってもいろいろあるので。創作する才能もあれば、それを見つける側として、批評する、将来性を見抜くことができる、そういうことも才能の一つだから。
松浦 名伯楽がいないと才能が才能と見なされないから。
恩田 そうなんです。コンクールを見ていると「またこの先生だ」というような、毎回生徒をサポートしているお馴染みの指導者がいて、名選手名監督にあらず、というわけではありませんが、本人はそんなに知られた存在でなくても育成に関してはすごく才能がある人がいます。そういうさまざまな才能についても興味がわいてきますね。

松浦作品と『鈍色幻視行』の共通点

松浦 『蜜蜂と遠雷』は音楽ということの他にもう一つ、若さをめぐる物語でもある。純粋無垢の若さの結晶、「若さのイデア」みたいなものが漲っている晴れやかな青春小説でした。
恩田 松浦さんも『無月の譜』で、フレッシュなものを書いておられました。
松浦 将棋の駒をめぐる物語ですね。あれはたしかに、若さとは何かということを僕なりに追求した作品なんです。二十代後半の青年が主人公で、その年齢の頃の自分を思い出しながら書いていきました。しかしあの小説は僕のものとしてはきわめて例外的なんですよね。恩田さんは二十代で小説を書き始めたと思いますが、僕は四十を過ぎてからだから、もうすでに疲れた中年男になっていて、以後、基本的にはそういう人物ばかり出てくる。
恩田 『香港陥落』の三人の男たちも、人生に倦んでいるというか、疲れ切っていました。
松浦 疲れていてうらぶれていてやるせない。僕の小説はだいたいそうなんです(笑)。必然的にそうなっていく。
恩田 『無月の譜』は明るくて、とても未来のある物語でした。
松浦 そういう物語も一度は書いてみたいと思ったのかな。主人公が挫折してプロ棋士になりそびれたところから始まるんですが、若さとは何かというと、僕はそれはやはり挫折という体験と切り離せないと思っているんです。そしてそれは決してただ暗いだけの体験ではない。挫折を糧にしていっそう豊かな未来の可能性を開けるのが若さですから。若者は挫折するという「特権」を持っている。中年や老年になると挫折はもはや単なる挫折でしかない。寂しいことですけどね。まさに「鈍色」のね……。
『蜜蜂と遠雷』でピアノに魅入られていた若い登場人物たちと同様に、『鈍色幻視行』での飯合梓や『夜果つるところ』に取り憑かれていたあの人たちも、創作者としてものづくりの情熱はあるけれど、同時に何らかの挫折感も抱えていますよね。創作に魅せられると、必然的にどこかで挫折するという不吉な運命を背負うことになるのかもしれません。
恩田 最初に松浦さんの『名誉と恍惚』と『鈍色幻視行』には重なる部分があるとお話ししましたが、「欠如と接吻――批評の悲劇」という論考(『青の奇蹟』所収)にも共通するところを発見して、ものすごく興奮しました。『鈍色幻視行』には、最初に『夜果つるところ』を助監督として映画化しようとして失敗した監督が、幼い頃に母親を失っていることもあり、この作品は一種の「母恋いもの」だとするエピソードが語られますが、「欠如と接吻」にもそういう話が出てきます。あらかじめ母親を失っていないと批評家にはなれない、という考察が。
松浦 母の欠如というのは人が抱える最大の欠如なのかもしれない。
恩田 そういう人が批評や創作をする、というのにはとても賛同します。
松浦 僕が『鈍色幻視行』で最もぐっときたのは、書名と同じ「鈍色幻視行」という表題を持つ、非常に短い第四十三章で、ここには相当すごいことが、創作行為の本質が書いてあります。
「たぶん、芸術作品というのはすべてそういうものなのではないだろうか。スクリーンに、舞台に、ページの中に、何かを呼び寄せる。それぞれが設けた場所に、何かが降臨してくれるよう、ひたすら祈りを捧げ、雨乞いのごとく希(こいねが)うのだ」
 創作論というのはもうこれに尽きていると思うんです。この小説は、「名探偵、皆を集めて“さて”といい」じゃないけど、本格推理小説の一種のパロディのようなところもあり、関係者を一箇所に集めて舞台を作った上で、最後に人間のクリエーションとは何か、という話にまで持っていく。そしてこの短い章で、この長い長い小説に語られてきたいっさいが、色彩のない、時間も光もない、ただ単調にたゆたうだけの波が続く鈍色の海に、結局は溶けてしまう。今日は最初に「フィクションの枠が溶ける」という話が出ましたが、ここで起きているのはまさにそれでしょう。
恩田 寂しい話なんですよ。豪華客船なのに。
松浦 「鈍色」の中に溶けていく。そこにはやはり、ものを作ろう、書こうとする人間の宿命みたいなものが透視されます。
恩田 あの人たちは創作という呪いに取り憑かれているんです。
松浦 その呪いはパッションでもあるでしょう。情熱であり受難でもあるという意味で。