「エンディング」がゲームに「物語」をもたらす
「誰でもエンディングを見ることができる」ことが、なぜ革命的だったのでしょうか?
それは、物語には必ず「はじまり」と「終わり」が必要だからです。ここでいう「終わり=エンディング」はいわゆる「ゲームオーバー」とは異なり、「ゲームの全課程を完了した」という達成感を伴うものを指します。ゲームオーバーは「完了」というより「中断」ですね。RPGの普及によってゲームに「はじまり」と「終わり」があることが自明のこととなったとき、ゲームは「物語メディア」としての性質を一気に強めていきました。
実際、RPG普及以前に主流だったアクション/シューティングゲームにおけるエンディングは、「プレイヤーの1%も見ないだろう」という前提で開発されていたため、ほとんどは「クリアおめでとう」という言葉が英語で書かれた1枚の画面が用意されている程度の簡素なものか、あるいはそもそもエンディングシーンが存在しないゲームも多かったのです。特にアーケードゲームでは「上手なプレイヤーにはそのぶん長時間遊ばせてあげることがサービス」という考え方から、簡素なエンディング画面の後、スタート地点に戻ってさらに高難度な2周目がスタートするループ構造のゲームも多くありました。
ところが、ドラクエによるRPGの普及以降、制作者はゲームのエンディングで物語の決着をつけることを意図し、プレイヤーもそれを意識するようになりました。任天堂のRPG『MOTHER』で使われたキャッチコピー「エンディングまで、泣くんじゃない。」にも象徴されるように「ゲームのエンディングで感動して泣いてしまった」という体験が強烈なインパクトを持つようになり、ゲームは小説、映画、マンガのようにシナリオをもつ「物語の器」となっていったのです。