信長を感激させた家康の完璧な接待
凱旋ルートは、「富士山が見たい」と思い立った信長が急に決めたのか、それとも、武田征伐が始まる前から予定されていたのかは不明だが、いずれにせよ家康は、短期間で接待の準備を整えなくてはならなくなった。
しかし、各地における家康の応対は、信長を大いに満足させるものだった。それは『信長公記』を読むとよくわかる。
「家康卿、万万の御心賦、一方ならぬ御苦労、尽期なき次第なり。併ながら、何れの道にても、諸人の感じ奉る事、御名誉申すに足らず。信長公の御感悦、申すに及ばず」
とあるからだ。
家康は、信長が通る要所要所に立派な宿泊施設や休息所、茶屋、厩などを設けた。通過する道路も綺麗に整地し、川には橋や舟橋(舟をつないで橋にする)をかけた。さらに京都や堺に人を遣わし、諸国の珍味を用意し、各地で信長を饗応したのだった。
信長のため、天竜川に橋まで架け、御殿まで建てた家康
たとえば、流れの速い広大な暴れ川である天竜川。この川には到底、橋が架けられそうにないのに、信長が到着すると、見事な舟橋がかかっていた。
『信長公記』は「上古よりの初めなり」、つまり史上初めてのことだと記し、「国中の人数を以て、大綱数百筋引きはへて、舟数を寄させられ、御馬を渡せらるべきためなれば、生便敷丈夫に、殊に結構に懸けられたり。川の面、前後に堅く番を居えおき、奉行人粉骨申すばかりなし」と、舟橋のできばえを褒め称えている。
また、吉田川を越えた御油(五位)の地に設置された御茶屋は、入り口のところに結構な橋をかけたうえ、新調した風呂が用意され、珍味と一献を進上したとある。道中の細い山道は、金棒を遣って岩を砕いて道幅を広げ、岩を取り除いて路面を平坦にした。
とくに信長を感嘆させたのが、富士山を眺めたあと、登山口の大宮(富士山本宮浅間神社)に出向いたときのことだ。一帯は二カ月前まで武田氏の支配地であったので、武田征伐のとき北条氏が進軍し、社殿をはじめ付近一帯をことごとく焼き払っていた。
家康は、武田の残党が襲い来る危険があると考えたのか、大宮が要害の地なので、境内に信長を迎える御座所をつくった。たった一晩泊まるだけなのだが、家康は「金銀を鏤め、それの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋懸けおき、御馳走、斜ならず」(『信長公記』)とあるように、素晴らしい御殿を建て、その周りを柵や兵で固め、信長の安全をはかったのである。
この配慮に感激した信長は、同行している家康に対し、脇差しや長刀、馬などを贈呈し、謝意を表している。