勝頼の軽率な行動が原因で、徳川方に有利に傾く

しかし、この頃から情勢は、徳川方に有利に傾いていく。

それは、勝頼の軽率な行動が原因だった。

天正六年(一五七八)三月、越後の上杉謙信が急死すると、謙信の養子の景虎と景勝が家督争いを始めた。勝頼は、小田原の北条氏政の依頼もあり、両者の調停に乗り出すが、途中から賄賂を受け取って景勝に加担。これにより勢いを得た景勝は、景虎を敗死させ、上杉家の実権を握ったのである。

景虎は北条氏政の実弟だったので、激怒した氏政は、武田氏との同盟を破棄し、徳川と結びついてしまった。このため勝頼は、織田・徳川・北条を相手に苦しい戦いを強いられることになった。

武田の弱体化を見て、天正八年(一五八〇)秋、家康は膠着していた遠江国の高天神城攻めを本格化させた。付け城を多く配置して徹底的に城を包囲し、激しく攻め立てたのである。

裏切りの連続になすすべなく…徳川家康を苦しめ続けた宿敵・武田勝頼が、自らの身を滅ぼすこととなった「賄賂」の享受_2

岡部元信は絶望的な状況のなか、ついに徳川方に降伏を申し入れた。が…

勝頼をこの城におびき寄せて一気にたたくか、あるいは、来援できない勝頼の不甲斐なさを天下に知らしめるのが狙いだったと思われる。

事実、周囲の敵との戦いで、勝頼には高天神城へ後詰に向かう余力がなかった。

高天神城の城将・岡部元信は、絶望的な状況のなか、ついに徳川方に降伏を申し入れた。

そこで家康が城方の意向を信長に打診したところ、天正九年正月、信長は「降伏を認めてはならない」と返答してきた。そこで家康は兵糧攻めを続け、それから二カ月後の三月、高天神城に総攻撃をかけた。進退窮まった城兵は突撃を敢行、六百人が討ち死にし、ついに堅城は陥落した。こうして家康は、遠江一国を完全に掌握したのである。