母と再会も自分たちに気付かなかった

高校は地元千葉の定時制に通った。眉毛をすべて剃り、頭に“そり込み”を入れていた苗村は全日制の先輩に目をつけられて、毎日喧嘩を売られた。

「30人くらいの激ヤバそうな集団に呼ばれたときは、ああもうこれはやられると覚悟しました。でも、施設の先輩から『一般家庭の奴らに舐められるんじゃねえぞ』と教わっていたんで、僕も全日制の先輩を必死に睨み返して。心の中では『うわあ、おっかねえ』て思う一方で、一般家庭で育った人たちや社会に対して何クソっていう」

高2のとき、祖父の葬儀で母親と約10年ぶり再会した。喪主であった母を見つけ、「あ、お母さんだ」と思った。目の前に立って話しかけようとしたそのとき、母は苗村に向かって「父のためにありがとうございます」と頭を下げた。

「ああ、お母さん自分のこと気付いてないんだなって。何も言えなかったです。別に憎しみとか変な感情はないですよ。一緒にいた兄とも『俺たちのこと気付いてなかったよな』ってだけ話して、結局自分たちから名乗ることはしませんでした」

高校卒業時の写真
高校卒業時の写真

頭を下げてくれた施設の職員の気持ちを踏みにじりたくないと、高校は真面目に通って無事卒業した。卒業後は、千葉の水産加工会社に就職する。住まいは会社の寮として用意された一軒家にひとりだった。

「それまで16年間暮らしていた施設内は80人くらいいて、4人の相部屋でした。施設ではひとりの時間って基本ないんですよ。生活音がまったくない環境に慣れるまで時間がかかって、仕事後は真っ直ぐ寮に帰りたくないから、毎日施設の同級生を夕食に誘ってました」

しかし18歳で就職したその職場は、理不尽な体験から2年ほどで辞めてしまう。

「逃げ出した自分も今となってはよくなかったと思っています。でも、そのときはちょっと施設出身を馬鹿にするような言い方をされたのが許せなくて」

仕事を辞めてふらふらしていた頃、元職場の先輩から電話があった。その先輩には、12歳のとき施設でもらってからずっと財布に入れて大事にしていた名刺を見せて、「坂本博之さんにジムに来いと誘われたことがある」と、自慢したことがあった。

「何もしていない自分を心配して、『お前、坂本さんのところでボクシングやりたいって言ってただろ』って。勇気がなくて迷ってるんだったら、俺が間に入って連れて行ってやるからって。その先輩、坂本会長とは何のつながりも面識もなかったのに、自分と一緒にジムに入って、『こいつをよろしくお願いします』って頭下げてくださったんです」

ここでもまた、高校入学のとき同様、自分の代わりに頭を下げてくれる人がいた。ただ、児童養護施設で初めて会ったミット打ちから、8年が経っていた。覚えてくれているだろうかと心配だったが、苗村と再会した坂本氏は、施設名を伝えると「おお、あの時の子か!」とすぐに思い出してくれた。

まもなく、苗村はジムがある都内の西日暮里に住居を移す。ところが転居後すぐにジムに入会したものの、2ヵ月もしないうちに、職場を辞めたときと同様にまた姿を消してしまった。

こうしてふと、ジムに教え子が突然来なくなる経験は何度もある。坂本氏はただ待った。

10年ぶりに再会した母は息子である自分のことがわからなかった…児童養護施設出身ボクサー・苗村修悟が“平成のKOキング”坂本博之のジムに入るまで_4


#2へつづく

#2 デビュー以来、勝ちはすべてKO勝利で、アマチュア日本王者を破った雑草魂の夢

取材・文/田中雅大 撮影/石原麻里絵(fort)