彼が三十六歳の時に誓った五か条というのがスゴイ
日本の仏教界では、女犯を避けるため男色が盛んだったというのは有名な話です。
文芸にも枚挙にいとまがないほど男色話は満ちていて、前近代の僧侶が男色にいそしんでいたことは誰もが知る常識に近いものがあります。
が、「事実は小説よりも奇なり」と言いますが、文芸の男色話に馴れた私も、松尾剛次『破戒と男色の仏教史』で紹介されている実在の人物の交遊ぶりには驚かされました。
彼の名は宗性 (一二〇二~一二七八)。
建仁二(一二〇二)年生まれですから男色盛んなりし院政期、似せ絵の名手として知られる藤原隆信の孫としてこの世に生を受けました。
十三歳で出家した宗性は、のちに東大寺の別当(長官)にまでのぼりつめます。そんな彼が三十六歳の時、誓った五か条というのが凄いのです。以下、松尾氏の前掲書から訳文を引用すると……。
現在までで、九五人である。男を犯すこと百人以上は、淫欲を行なうべきでない
「一、四一歳以後は、つねに笠置寺に籠るべきこと。
二、現在までで、九五人である。
男を犯すこと百人以上は、淫欲を行なうべきでないこと。
三、亀王丸以外に、愛童をつくらないこと。
四、自房中に上童を置くべきでないこと。
五、上童・ 中童のなかに、念者をつくらないこと。」
松尾氏によれば、この誓文は、弥勒菩薩の浄土とされる兜率天への往生を望んで作られたといいます。また笠置寺に籠るというのは隠遁を誓っているといいますが、宗性はのちに大安寺や東大寺の別当に任命されており、結局誓いは守り通すことはできませんでした。
凄いのは、三十六歳の時点ですでに関係した男色相手が九十五人にものぼっていたという点です。しかも宗性は大貴族ではなく中級貴族出身で、当時は大法師という中級クラスの僧侶でした。
松尾氏はそこに注目し、
「男色相手の数については上限を設定しても、男色自体については反省もしていない点や、その数から判断すると、中級の大法師クラスの官僧たちにまでも、男色は一般的であったと考えられます」
「中世の官僧世界における男色関係の広がりの予想外の大きさが推測されることになります」
と指摘しています。