出世してますます男色の機会も増えていく中…

ちなみに上童や中童というのは僧侶に仕える童子のことで、必ずしも子どもとは限りません。この童子には、稚児(上童)と中童子と大童子の三種があって、平安時代の歴史物語『栄花物語』では花山院のお供に大童子の大柄で年輩の者四十人、中童子二十人、召次といった雑事係やもとから院に仕えている俗人どもが奉仕している、とあります(巻第八)。

大童子とは年を取っても童形のまま寺院で働く下働きの者のことで、その序列についても従来は曖昧だったり諸説あったりしたのですが、寺院の童子を詳細に研究した土谷恵によれば、兒(上童)→中童子→大童子の順といい、古典文学での描かれ方を見ても、土谷氏の説が最も納得できます(『中世寺院の社会と芸能』)。

そんなわけで、亀王丸とは宗性が寵愛していた上童(あるいは中童子?)らしいのですが、笠置寺に籠るという誓いも守られなかったわけですから、三十六歳の時点ですでに九十五人と男色関係にあった宗性が、その後、出世してますます男色の機会も増えていく中、百人以上と関係しない……という誓いが守られたとはとうてい思えません。

「95人の男と寝た」のちの東大寺トップ(36歳・男)が誓った呆れた言葉…「男色自体については反省もしていない」という指摘も_2

『古今著聞集』の伝える仁和寺覚性法親王の寵童たち 

宗性より少し前に生きた覚性法親王(一一二九~一一六九)も、当然のように男色を嗜んでいました。

覚性法親王は、鳥羽院と待賢門院璋子の皇子で、仁和寺の御室(長官)でした。保元の乱で、同母兄の崇徳院と後白河天皇が敵・味方に分かれ、敗れた崇徳院が彼の留守中に仁和寺に逃れてきた時は、そのことを後白河天皇に告げ(『保元物語』中)、後白河天皇の味方をしています。

覚性法親王には、鎌倉時代の説話集『古今著聞 集』によると、千手という〝御寵童〟がいました。美形で性格も優美で、笛を吹き、今様(流行歌)などを歌ったので、〝甚だしかりける〟寵愛ぶりでした。が、新参の三河という童が、箏の琴を弾き、歌を詠んだりすると、御室(覚性法親王)はこちらも寵愛し、千手の影が少し薄くなったのです。千手は面目がないと思ったのか、退出して久しく参上しませんでした。