御室は我慢できなくなって、千手を抱いて御寝所に
そんなある日、酒宴があり、さまざまな遊びがあった際、その座にいた御弟子の守覚法親王(一一五〇~一二〇二。後白河院の皇子で覚性法親王の甥)が、「千手はなぜおらぬのでしょう。召して笛を吹かせ、今様などを歌わせたいものです」と言ったので、すぐに使いを出して千手を呼んだものの、所労を理由に千手は参りません。
三度目の使いにやっと参上した千手は、目のさめるような装いに身を包みながらも、物思いに沈む様子が明らかで、塞ぎ込んでいました。人々が千手に今様を勧めると、
〝過去無数の諸仏にも すてられたるをばいかがせん
現在十方の浄土にも 往生すべき心なし
たとひ罪業おもくとも 引接し給へ弥陀仏〟
と歌いました。「諸仏に捨てられる」というくだりを少しかすかな声にして歌った様子が、思い余った心の色が表れて、しみじみと胸を打つので、聞く人は皆、涙を流し、その座はしんみりしてしまいました。
御室は我慢できなくなって、千手を抱いて御寝所に入ってしまったので、一同は、御室の極端な行動に大騒ぎになってその夜は明けたのでした。
告げたいものです。私が入ってしまった山の名を
その後、御室が御寝所を見回してみると、 紅の薄様(薄い紙)を二枚重ねにしたものを引き裂いて、枕元に立てた小屛風に張り付けてあります。そこには三河の筆跡でこうありました。
「探して下さるような君でしたら告げたいものです。私が入ってしまった山の名を」(〝尋ぬべき君ならませば告げてまし入りぬる山の名をばそれとも〟)
御室が昔の寵童に心を移したことを見て、こんな歌を詠んだのでした。三河は高野山にのぼり、法師になってしまったということです(巻第八)。
ちなみに平重盛の子に当たる資盛(清盛の孫)は、『愚管抄』によると後白河院に可愛がられて威勢があったため、平家が劣勢になって都落ちする際、院の御意を伺おうと……つまりは院に助けてもらおうとして、清盛の弟の頼盛と共に、比叡山に行幸中の院を訪ねました。
頼盛は、清盛に殺されるはずの源頼朝の命を救った池禅尼の生んだ子です。いわば頼朝の命の恩人の息子である上、院の異母妹の八条院に仕える女房を妻にしており、縁故がありました。
案の定、院から八条院のもとへ行くようおことばがあり、女院にかくまわれることになるものの(もっとも『平家物語』巻第七「一門都落」によると女院はそっけない対応をしたとされています)、資盛に関しては、院に取り次ぐ者もなく、お返事すらもらえずじまいとなった。そのため、一門と共に都を落ちていくことになったのでした(『愚管抄』巻第五)。
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