昭恵は、自らも一緒に涙を流しながら、夫を慰め続けた
昭恵は、自らも一緒に涙を流しながら、夫を慰め続けた。
晋三は死の2年前から、晋太郎が癌であることを知らされていたが、これほど早く亡くなるとは考えていなかった。そのため、父親の分まで立ち働いており、十分に話す機会をつい逸していた。その後悔と、父親を失った悲しみと、父親の後継ぎという重責が、激しい奔流のように一気に押し寄せてきたのかもしれない。
何より、総理への道を目指して弛まぬ努力を続け、そこへ辿り着く一歩手前で病に倒れた父親の無念を思うと、晋三はどうにも居たたまれなかったのであろう。その悲しみが、やがて父親の志を継ぐ、固い決意へと昇華されていったと昭恵は見ている。
昭和35年の安保騒動のとき、幼い晋三が祖父・岸信介の家に遊びに行くと、家の周囲はデモ隊が取り巻いていた。しかし祖父は、子供であった晋三ら兄弟と遊ぶなど悠然としていた。
マスコミをすべて敵に回しても、まったく動じなかった
のちに晋三が思うには、祖父には揺るぎない、「自分のやっていることは間違っていない」という自信と信念があった。世論から批判され、マスコミをすべて敵に回しても、まったく動じなかった。晋三は、祖父から、正しいと思ったことをやるときは、決して動じてはいけないということを学んだ。
父親の晋太郎は、晩年、ソ連との国交正常化や北方領土の返還に政治生命をかけていた。そのとき、すでに身体が悪く、肉体的に厳しいなかでソ連を訪問し、ゴルバチョフから「叡知ある解決を考えたい」という言葉を引き出した。その執念は、凄まじいものであった。
晋三は、父親から「政治家として目標を達成するためには、淡白であってはならない」ということを学んだのだ。
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