「おれも甘いところがあるけれど、
晋三も俺に輪をかけたようなところがあるからな」
「そんなに痩せてもいないし、これを見たら、みんな安心するな。これからは、ときどき出かけて、いろんな方にお会いしようかな」
晋三は、晋太郎が病気になってからは、いつもそばについていた。
晋太郎は、柔らかな表現はしないタイプで、病床に晋三が見えないと「どこに行っていたのだ。秘書なのだから、しっかりしなくちゃダメじゃないか」と叱った。
また晋太郎は、妻の洋子に、晋三について常々こう言っていた。 「おれも甘いところがあるけれど、晋三も俺に輪をかけたようなところがあるからな」
「ちょっと心細いようでもあるけれど、何とかやってくれるだろう」
そして半分冗談のようにこう続けたという。
「ちょっと心細いようでもあるけれど、何とかやってくれるだろう」
晋三が後を継ぐことははっきりしていたが、特に遺言めいたことはなかった。死期が近くなると、晋三を枕元に呼び、晋太郎は諭すように言った。
「政治家になるのは、大変だ。お前も、相当覚悟をしないとダメだ。死に物狂いでやれ。そうすれば、必ず道は拓ける」
晋三は、これまで命を削って国のために働いてきた父親の姿を見て、改めて覚悟が固まった。
昭恵の前で泣き続けた
5月15日午前7時7分、安倍晋太郎は、順天堂医院で膵臓癌のために亡くなった。67歳であった。
晋三は、父親の無念の死に男泣きに泣いた。5月16日の芝の増上寺での5000人が参列した通夜、翌日の8000人が参列した葬式と、忙しく動いている昼間はまだいい。が、夜になると、晋三は昭恵の前で涙を流し続けた。
「父が亡くなった時はものすごく落ち込んでいて、ずっと泣いてたんですよ、夜になると。わたしは……もういい大人じゃないですか、こんな泣いてて大丈夫かというか、この人、政治家としてこれからやってくのに大丈夫なんだろうかって思いました。けれど、その後は主人の涙は、一回も見たことがないんです。第一次政権で総理を辞めた時。あの時ですら、涙は流さなかったですね」