曖昧表現はトラブルのもと

――外国人は自己主張の強い人が多いイメージありますね。

私が子供だった40年以上前から学校では国際化、国際化とずっと言われていますが、その時から何も変わっていないわけです。今は多様性とか多文化ということで、色々なバックグラウンドの人がいる。そうすると、日本にいながら日本人が負ける状態が出来つつあります。

「子供の泣き叫ぶ声が聞こえていても、他人だから関係ない。隣近所の子の悪事を勝手に叱ると問題に…」無縁社会ニッポンを憂うフィフィが指摘する日本の弱点_3
幼少期には子役としても活躍していた(写真中央がフィフィさん)

2020年に中国の王毅国務委員兼外相(当時)が来日した際には、記者発表の場で尖閣諸島について「自国の主権を守っていく」と明言した王毅外相に対し、日本の茂木敏充外相(当時)はその場で十分な反論ができなかった。それでネットでは保守派から「シエシエ茂木(謝謝茂木)」と揶揄されたんです。
中国だったら、その場ですぐにしっかり反論したはず。日本だと場の空気を乱しちゃいけないと思って、何も言わなかった。象徴的なシーンでしたね。

相手の言うことも尊重した上で、自分の言いたいことも言うのが国際社会では大事なんです。お互いが対等になることが大事。言われっぱなしでは対等にならないんです。

侘び寂びとか、一昔前に流行ったファジーなんて言葉が通じるのは、日本だけなんです。日本の美学が崩れてしまう部分もありますが、それとこれは別であると、学校で教えていかないといけない。授業中に手を挙げる生徒に対し、もっと高い評価を与えていく必要がある。他人との間に摩擦をつくらないという考えも日本の美学や文化として継承していくのはいいと思いますけど、使い分けないといけませんよね。

バックグラウンドが多様な集団のなかでは、ある程度ストレートに言わないと伝わらないんですよ。分かってくれるだろうと曖昧な表現をしていると、誤解が生まれてかえって大変なことになるんです。