キワコも辻に助けられていた
辻の妓楼は、2~5人程度の芸妓を束ねる「抱親(アンマー)」が経営し、抱親の中から選ばれた「お年寄り」「中元老」「大元老」が辻全体の運営にあたったという。
『辻の華』では、肉親の縁を失った者同士が集住し、支え合い助け合う独特の社会システムを形作っていた抱親について〈親に連れられてきた娘たちを買い取って遊女に仕込む抱親たちは、自分も親に売られた哀れな道を通ってきた姐(おんな)であるだけに、人の傷みに我が身の古傷を思い出しました〉と綴られている。
しかし、米軍の沖縄上陸の前年、1944年に起きた「10・10空襲」で辻の状況は一変する。延べ1396機、9時間にわたる米軍機による無差別な空爆で、壊滅的な被害を受けた。
辻は当時、政財界をはじめとする各界の士が集まる社交場ともなっており、日本軍の軍人たちも一時の安息を求めてやってきていた。空襲で焼け出された辻の女性たちの一部は、32軍の司令部壕があった那覇市首里に身を寄せたという。
旧日本軍作成の資料には、首里の32軍壕の第3梯団に「若藤楼」という料亭の女性が、第4梯団に「偕行社」の女性がいたことを記している。偕行社は旧陸軍の親睦組織で、敗戦により一時解散したものの、1952年に陸軍将校OBらにより、「偕行会」として復活。57年には偕行社の旧名称に改められて財団法人化され、現在は旧陸軍の実質的な後継組織となっている陸上自衛隊の親睦団体となっている。
偕行社は太平洋戦争時には、幹部たちの慰安のために将校倶楽部も運営しており、那覇市に隣接する現在の豊見城市にその施設はあったとされる。
一方、若藤楼は辻にあった遊郭であり、前出の上原栄子の著書『辻の華』の後編にあたる『辻の華・戦後編』(時事通信社刊)に、若藤楼の女性たちが首里の32軍司令部に移動したとの記述がある。
戦前から戦後にかけ、激動の時代を生き抜いた女性は、戦後、生きるために沖縄に渡ってきた身寄りのない女性たちの駆け込み寺のような存在になっていた。
「親に捨てられて天涯孤独の身の上だったこともあるのかもしれない。特に奄美の女性たちの面倒をよく見ていて、キワコも助けられたひとりだった」
しかし、キワコはある日、女性の前から姿を消す。
那覇市内のAサインバーで踊り子をしている——。女性が、キワコの消息について、そんな噂を耳にしたのはしばらく後のことだった。