巨万の富
那覇市中心部を走る国際通りは、「奇跡の1マイル」の別称で知られる観光都市、沖縄を象徴する通りだ。
1974年、復興の中心地だった那覇市牧志に、映画館「アーニーパイル国際劇場」が開館したことから名付けられたこの通りのちょうど中間あたりに「桜坂」という歓楽街がある。
いまも、コンクリート造りのこぢんまりとしたスナックが群集するが、かつては数百軒のバーやキャバレー、スナックがひしめき合う県内随一の歓楽街だった。
そして、キワコがはじめて自分の店を持ったのもこの場所だった。
「気前がよくてね。貫禄もあった。そうさね、女親分というのかな。そんな雰囲気もあったさあね」地元組織の元幹部で、現在は本島中部の勝連半島で漁師をする新里昌夫(仮名)はこう懐かしむ。
当時、新里は20代。ふた回りほど年上のキワコは40歳近くになっていた。長い内部抗争の渦中にあった組織の中で、新里のような血の気の多い若者がキワコの店に頻繁に出入りしていたという。
「若い者を見かけたら酒飲ませてくれたもんさ」「世替わり」の沖縄には無秩序な空気が充満していた。刺激に飢えた連中が、抱え込んだ欲求不満を安酒で解消しようと集まった桜坂では、暴力沙汰が日常茶飯事だった。
「いくさ世」さながらの混乱の中、キワコが頼りにしたのは、持ち前の度胸と侠気だった。
無軌道な「アシバー(ヤクザ)」をも向こうに回しながら、夜の街を生きぬいたキワコはやがて自分の店を持ち、成功を収める。
狂乱の時代が終焉を迎えてしばらく経ち、島は、新たな金脈を探り当てたキワコと再会を果たしている。
「昭和50年頃だったか。奄美から出てきた者らで集まることになったわけさ」島が、会場となった那覇市内のホテルで顔なじみの郷里の友人と語らっていた時、着飾った女がやってくるのが見えた。
「眼を見てわかった。キワコだった。コザで出会ったあの女だと気づくのにしばらくかかったよ」この日のキワコは饒舌だった。そして、踊りの相手に、バスケットの中に潜む蛇ではなく、島を指名した。
踊り出したら止まらなかった。島は、奔放なキワコのステップにへとへとになるまで付き合わされた。
世替わりの混乱に呑み込まれることなく、成功の階段を這い上がったキワコは数年前に鬼籍に入った。それまで自分の過去を周囲に語ることはほとんどなかった。
しかし、島の網膜には、復帰前のあの日、紫煙立ちこめるコザの店内で見たハブと性愛のダンスを踊る若き肢体が、いつまでも色あせることなく焼き付いている。
※敬称略
取材・文/安藤海南男
前編:最盛期には100軒以上。米兵相手の防波堤にもなったコザ・売春街のオンナの不条理な物語「離島や大島から女売りがきた」「娘なんかパンパンさせていたよ」〈1972年、沖縄コザ・パラダイス〉 はこちら